カナダ人が将来 住みたい憧れの町 ケロウナで・・・
疲れた心を癒しませんか・・・
これから先の人生に必要なヒントとエネルギーが必ず得られるはずです

  
  
  

滝澤のカナダ移住&起業への道のり

 <第1話> それは学生時代の挫折に遡る
長野という典型的な田舎で少年時代を過ごした私が、夢中になっていたのが野球でした。当時の私は野球しか楽しみや娯楽が無かったのです。無我夢中で野球に打ち込んだ末、「甲子園に出たい!」という夢を追い求めるために松本市の松商学園という高校に進学しました。甲子園出場の通算回数50回で優勝1回準優勝3回を誇る全国屈指の甲子園常連校へ進学したことが、人生を左右しました。

高校での実績(?)を引っさげ、大学は日本体育大学へ進学しました。460名という「部員数ギネス記録」を持つ野球部で4年間を過ごしました。野球の世界では、「・・・高校〜・・・大学」の名前が履歴の目安になります。無名校よりも有名校の方が評価が高く、一種の野球偏差値が存在します。「松商学園〜日本体育大学」は、「PL学園〜早稲田大学」には及びませんが、野球偏差値ではかなり高いポジションに位置付けられます。

日本が今のような不景気になるまでは、この履歴(球歴)だけで、たいていの企業に就職できてしまったワケです。この野球偏差値を一番意識しながら、偏ったプライドを持つのは、本人自身であり、今思えば私も、妙で偏屈なプライドを持っていたのです。「高校大学と、これだけ一生懸命やってきたんだから評価されるはずだ!」と思い込みますし、実際、世の中も実力以上に評価してくれていました。

大学3年のある日、当時の私にとってショッキングな出来事がありました。アルバイト先のお客さんから、次のように言われたことです。「君は、高校大学で野球をやって来たことを自信満々に思っているようだが、将来、プロ野球選手になるのか?」 プロ野球は無理です、と答えた私に、「プロに進めないまま、今のような気持でいたら、君は単なる野球バカでしかないし、世の中に通用しないな。」

ショックでした。野球を始めた小学校1年生から大学までを全て否定されるかのような言葉でしたけれど、事実は事実、確かにその通りだったのです。数日間、いや数ヶ月間、お客さんから言われた言葉が頭から消えません。なんとか打開策を見つけようと躍起になる日々が続いたある日、 「滝沢君、夏休みにテキサスへ行ってみないか?」 というお誘いをある人物から頂いたのが、大学3年生の夏休み直前のことでした。

テキサス? アメリカ? それまで、海外には一度も行ったことが無く、飛行機にすら乗ったことが無い私にとって、刺激的なお誘いだったのです。




 <第2話> 初めての海外 単身でテキサスへ行く
大学3年の夏休み、「肩を故障しました」と嘘をついて、野球部の練習を長期欠席する許可をもらい、単身で1カ月間、テキサス州に行きました。恥ずかしながら、それまで外国に行ったことが無かった当時21歳の私は、日体大で培った「体力と度胸」だけを頼りに、成田空港へ向かったのです。

初めて目にする空港。空港職員に「タイ航空のダラス行きは何番線ですか?」と新幹線の乗り方と何が違うのかすら、分かっていなかったのです。ツアーでも団体旅行でもなく、たった一人でしたが怖さも寂しさもありません。小学校1年生から大学まで、投手一本で野球をしてきたせいか、緊迫した孤独感には妙に慣れていたのだと思います。

最初に降り立ったのはシアトルでした。2時間して再び飛び立ち、北米を南下しながら、テキサスへ。やがてダラスフォートワース空港に着陸。飛行機を降りる乗客の後について、空港内を進み、入国検査窓口へ。パスポートと帰りの航空券を渡すと、係官から英語で質問が飛んできました。

「???」 英語! 全く分かりません。訳が分からないまま、「YES!」を連発。押し問答が続いた後、屈強な警備員2名に両脇を抱えられ、別室へ。荷物を全部開けられ、写真を撮られ、衣服を脱がされ、全裸にされました。2時間ほどの拘束の後、ようやく開放され出口へ向かいました。

「いやあ、遅かったねえ」 吉田さん(仮名)が迎えに来ていました。梅宮辰男と谷啓を足して割ったような憎めない顔つきの当時55歳の方です。吉田さんを紹介してくれたのは、父が信用している人物からの確かな筋でした。数年後、ドラマチックな運命をたどる吉田さんと一緒に飛行機へ乗り込みました。1時間ほどのフライトで、サンアントニオ(San Antonio)に到着。この町で、これから1ヶ月間を過ごすことになるのです。それにしても熱い!




 <第3話> 灼熱のテキサスで見たこと
テキサスで御世話になった吉田さんは、10年前に大手証券会社を退職後、単身でテキサス州に渡り、持ち前の商才で事業を拡大された方です。吉田さんには、表の商売と裏の商売があり、表とは日本食レストランで、裏とは、企業買収専門のいわゆるM&Aというものでした。

日本食レストランは、サンアントニオ市内に2カ所あって、一店舗の大きさが巨大で、客席数1000席。ラウンジ、鉄板ショー、ダンスショー、ステージ、寿司カウンター、座敷ルームなどを備えたアミューズメントになっていました。私は、昼から夜にかけて吉田さんと一緒に行動しながら、レストランの厨房スタッフにカタカナ英語で接しながら、巨大な皿洗マシンを操作していました。

レストランの営業が終わると、吉田さんに連れられて日替わりのレストランで食事をしながら、吉田さんの話に興味深く耳を傾けました。当時(1988年)は日本がバブル景気だったこともあり、日本企業がアメリカの企業や土地建物を買収する動きが活発でした。吉田さんの裏の商売は、その仲介だったのです。テキサス州の石油王といわれる実力者 ターナー氏の力を借り、吉田さんは実績を造り上げたのです。一回の仕事で動く金額の桁は、日本円で数十億円単位で、仕事のエリアは、日本に留まらず、アメリカ、カナダ、メキシコ、カリブ海諸国に及びます。

「滝沢君、来月一緒にバハマへ行かないか?」と吉田さん。
「え? 来月は、もう日本に帰国していますよ」と私。
「そうかあ。残念だなあ。良い経験になるんだけどなあ」と再び吉田さん。
何でも、日本の大手建設会社がバハマの港湾建設を受注するとか、しないとかで、吉田さんはその建設会社の社長さんに同行してバハマに行くのだとか。観光見物などよりも、アメリカでエキサイティングに活躍している一人の日本人に身近に接することができた、という事が私の初めての海外旅行となったのです。1988年9月初旬。一ヶ月ぶりに成田空港に降り立った私は、これから将来に向かって自分が活躍する場所は、「アメリカだ!」と単純に信じていたのです。




 <第4話> 将来の想いは海外へ
アメリカから帰国後、私は卒業後の進路をアメリカ行きに定めました。吉田さんに「卒業したらココへ来い」と言われたというのが理由です。大学3年の秋。平穏に過ぎていく大学生活の中で、取りあえず、英語を身につけよう! と決心し、独学で英語の勉強をはじめました。

私の英語学習法は、今から思えば一風変わっていたかもしれません。毎週日曜日の朝に、横浜の野球部寮から皇居前広場に向かいます。皇居前には、日本に観光に来た外国人がいるのです。優しそうな外国人をつかまえて、前日から丸暗記した英文を相手に語りかけます。「こんにちわ。僕は日本の大学生です。今、英語を勉強しています。決して怪しいものではありません。どうか東京を案内させてください」と。

大抵の外国人の方は、面白がってOKと言ってくれます。ここから東京観光案内をするのですが、会話は全部英語ですから、これには参りました。最初の頃は、相手の言っていることが全く分からず、苦笑いの連続。でも、場数を踏むと不思議なことに、だんだんと慣れてきます。そうすると、もっと分かりたい、もっと伝えたい、という想いが強くなり、日曜日が待ち遠しくて、喋りたいことを英作文にしたり、暗記したり。平日は大学野球部の練習や授業があるため、NHKラジオ英会話を聴き、日曜祝祭日には皇居へ出かけては、外国人ハンターを繰り返す。

大学4年の夏に、再びテキサス州へ渡り、吉田さんと再会。卒業後は、吉田さんの会社で働かせてもらう約束と取り付けました。これが私の就職活動だったわけです。吉田さんは快く了解してくれて、私は卒業後にアメリカに行く確約を取り付けました。「よ〜し!俺はテキサスへ行くんだ! 卒業したらすぐ行く!」 という想いとは裏腹に、大学野球部の厳しいシガラミが待ちかまえていたのです。




 <第5話> 大手銀行の誘いを振り切ってテキサス州へ
私が大学4年だった1989年といえば、日本はバブル絶頂期でした。バブル期の就職活動は、今では信じられないほど恵まれていたのです。当時は、各企業がこぞって新卒予定者を「青田刈り」していた時代。体育会系の学生への人気が集中していたことも、大きな特徴でした。

私が在籍していた日本体育大学は、各運動部へそれぞれの企業からの「入社のお願い」が殺到していました。(今となっては夢のよう・・・) 野球部は一学年に120余名。私の野球部同期生のほとんどは、皆が教員志望です。プロ野球やノンプロ野球に進むのが10名余り。一般企業への就職希望者は20名ほどで、これに対して、各企業から「日体大野球部の学生が欲しい」と殺到する訳です。野球部の監督は体育学部長で教授でしたから、各企業に対して相当に強い力を持っていたようです。

私が教授と進路面談をした時のことです。「この中から選びなさい」と渡されたファイルに、20数社の銀行、損保、証券会社がありました。私は一瞬の戸惑いがあったものの、卒業したらテキサスへ行くことを諦めることができませんでした。結局、私は教授の薦めを強行に断ったのですが、私と教授のやり取りを知って興味を持った某都市銀行の担当者がおりました。何に興味を持ったのか? いや多分、この人事担当者は日体大から最低1名の内定確保を取り付けることが人事部からの至上命題だったのでしょう。信じられないかもしれませんが、当時は本当にそんな世相だったのです。

担当者の方からは、寮の方に何度も電話を頂き、熱心に入行を勧められ、独身寮やら勤務地やら、いろいろな条件まで提示を頂きました。一瞬の迷い、気持のぐらつきがあったことも事実です。でも、どうしてもアメリカへ行くんだ! テキサスへ行くんだ! という想いは消せません。そして3月の卒業を迎えました。一刻も早くアメリカへ行ってしまおう!

1990年4月1日 成田発ロサンゼルス行きの大韓航空機に乗り出国。期待で頭がクラクラするほどの興奮で前身が熱くなっていたのでしょう。ロサンゼルスから、コンチネンタル航空に乗り換え、吉田さんの待つテキサス州サンアントニオへ向かったのです。




 <第6話> いきなりの挫折 まさか!のスタート
新しい人生のスタートとなるテキサスへ到着し、サンアントニオ空港に降り立ったものの、迎えに来ると約束していた吉田さんがいません。きっと仕事で忙しいのだろう、と思い空港到着ロビーで待ち続けました。どのくらい時間が経ったのでしょう・・・ 6時間ほどでしょうか。間もなく最終便が離発着し、空港が閉まる時間になってしまいました。この間、何度と無く吉田さん宅へ電話をするものの繋がりません。

慌ててレンタカーのカウンターに行って、車を借りました。前年までに2回訪れている町でしたので、おおよその地理の検討はついていました。地図と記憶を頼りに吉田さん宅へ到着したのは夜中だったと思います。玄関には難しい文書が貼られていて、家屋は人の形跡がありません。仕方がないので、その日はレンタカーの中で寝ました。翌日、吉田さんのレストランに行ってみると、営業をしていません。

昨日、吉田さん宅に貼られていた同じ文書が玄関に貼られていました。当時の私でも、その文書がお役所絡みのものだと分かりました。暇に任せて、その文書の意味を辞書を引きながら確認しました。「強制」、「連邦税務当局」、「罰則規定」、などの意味が並んでいます。何かマズイことでもあったことは確かなようです。そこで、また記憶を頼りに、昨年、レストランで働いていたラオス人のコックさん宅を訪ねました。

彼は私の顔を見るなり、怒号で私を延々と怒鳴り続けました。私は何も知らないことを伝え、ようやく彼に納得してもらいました。このコックさんは、私が吉田さんの息子だと勘違いしていたようです。コックさんの話によると、吉田さんは多額の脱税をしていたようで、連邦税務局に見つかり逮捕。即日にレストランは営業停止になったそうです。彼ら従業員は給料未払いだったので、その怒りの矛先がなく、前年同様たまたま現れた私に、罵声を浴びせたということだったのです。

吉田さんがいない、吉田さんは逮捕された、吉田さんの会社は強制閉鎖された、頼るべき人がいなくなった、明日からどうすればいいのか?つい2日前まで、期待と夢で一杯だった頭の中が、急転直下、不安と絶望感に包まれて行ったのです。




 <第7話> テキサスでスタートした孤独生活
2日目の夜は、郊外の安ホテルに泊まったような記憶があります。訳が分からないまま、アパートを借りるべく、何件もさまよいました。テキサスでアパートを見つけるコツは、常駐している管理人を直接訪ね、空き部屋と料金を確認し、その場で半月分の手付金を払えば完了です。当時(1990年)、1ヶ月約1万8000円で部屋を借りました。とりあえず住処を確保し、最低限の生活品を揃え、孤独な一人暮らしがスタート。

向いの部屋の住人は一人暮らしのメキシコ人で、失業していた様子。玄関外の椅子に朝から晩まで座っています。いつも大事そうに手にした物体をボロ布で磨いています。その物体は実弾入りの拳銃でした。「お〜い、日本人! 今日はどこに行くんだ?」 私の顔を見るといつも決まって彼は話しかけてきます。やがてこれが毎日の挨拶になりました。

サンアントニオは軍の町です。陸軍の基地が2つ、空軍の基地が1つ。この町は、全てが軍事色で染まったような暗い色をしていました。湾岸戦争が始まる直前だったこともあり、毎日のように大型輸送機が編隊を組んで飛び立っていきます。ニュースは湾岸危機を伝えます。この当時は、アメリカ経済がどん底の不景気で、史上最悪期。一方の日本はバブル景気に潤い、アメリカの不動産や会社を買収していました。ジャパンバッシングと言われていた時代です。CNNニュースですら、日本製品の不買を呼びかけ、日本車や日本製家電品が狙い打ちされます。

アメリカの幼稚園児が、全員トンカチを持って、廃車寸前のトヨタ車をボコボコと殴りつけます。それを見守る父兄や先生たちが拍手をする。これが繰り返しテレビのニュースで流されるのです。毎日です。アメリカ南部は「白人至上主義」の土地柄ですから、元々、アジア人に対する偏見は強いようですが、頭で分かっていても、実際に経験すると、精神的に苦痛になります。どこに行っても嫌われ者の日本人だから。

ある日、知らない人に「コロンビアはアメリカの魂だ!」と怒鳴られました。SONYがコロンビア映画会社を買収した直後のことでした。ある日、知らない人に「フェラーはアメリカの象徴だ!」と怒鳴られました。三菱地所がロックフェラーセンタービルを買収した直後のことでした。ある日、スーパーで買い物をした時、レジの店員に「日本人は大嫌い!」 と怒鳴られ、釣り銭を顔に投げつけられました。

毎日、どこかで誰かに、日本人であることを知られると、その場で怒鳴られたり、唾を吐きかけられたり、大嫌いだ、馬鹿野郎、と言われる日々。1カ月が過ぎた頃、私は自分を韓国人だと名乗るようにしました。韓国人だと言うと、不思議と怒鳴られることは無くなりました。これは経験しなければ分かりませんが、自分を日本人と名乗りたくても名乗れないほど、悔しいことはありません。自分の存在や可能性を自ら放棄してしまう行為に、自暴自棄、自己嫌悪、虚脱感に襲われます。

パン!パン! 夜、アパートの部屋にいると、必ず聞こえる銃声です。3日に1度の割合でどこかから聞こえてきます。治安は悪くなる一方。毎日、何もすることが無く、働きたくても働けず、学校に行くことも出来ず、気がつけば、新卒失業者という情けない身分になっていました。4月、5月、6月、7月、時間は普通に流れていきます。一体、自分はどうするべきか? 何をするべきか? そればかりを考えていました。
 
さすがに、自分の判断だけではどうにもならず、誰かに相談したい!という欲求が高まってきました。でも、一体誰に相談するのか?私の頭に、ある人物が浮かびました。迷うことなく、電話をかけると、懐かしい声が聞こえてきました。 「滝沢か! どうしたんだ?」 




 <第8話> ロサンゼルスで再会した偉大な先輩
テキサスでの孤独生活も4カ月を過ぎ、体重は中学2年当時の61kgまで痩せこけ、精神的にも限界点に近づいていました。自分一人の力では、どうすることも出来ない現状から抜け出すヒントを求めて、ロサンゼルスに留学中だった大学時代の先輩に電話しました。勝崎さん(本名)は、日本体育大学陸上部110mハードルのスペシャリストで、1989年からロスのUCLAで、専門のコーチ学を学んでいました。

「滝沢か!久しぶりだな。どうだ?テキサスは?」懐かしい声でした。勝崎さんは陸上部、私は野球部でしたが、私の一番の先輩です。事情を話すと、「とりあえずロスに来いよ!」と言って頂き、迷うことなくサンアントニオ〜ダラス〜フェニックス経由でロスに向かいました。1年振りにLA空港で勝崎さんに再会した時の感動は今でも忘れません。そのまま10日ほど、勝崎さんの安アパートで御世話になりました。落ち込んだ私を、持ち前のバイタリティで厳しく励まして頂き、不安定な立場は同じだということを聞かされました。UCLAでコーチ学を学んでも将来、仕事に結びつくかさえ分からない中、信念を貫いている勝崎さんを知り、自分の信念の無さに気が付きました。

テキサスを引き払って、ロスで適当に英語でも勉強しようか? 日本人留学生に混じっていれば、それもそれで楽しいかな?
勝崎さんの人望を慕ってたくさんの日本人留学生が集まり、後輩の私にも興味を示してくれ、「滝沢君、ロスに残れよ」と皆が誘ってくれます。テキサスにいても、楽しくないし、人種差別を受けるし、恐いし・・・   ロサンゼルスなら、日本人も多いし、明るくて楽しそうだなあ・・・ しかし、テキサスでダメだから、先輩を頼ってロスへ来てもいいものか?だって人を頼った結果、テキサスで失敗したんだから。ロス滞在中、15名ほどの日本人留学生グループと行動を共にしました。私と勝崎さんが一番お金が無くて、他の方たちは皆さんお金持ちでした。毎日、日本語で日本のテレビを観て、バーやクラブへ行き、学校は午前中だけの日本人留学生の実態を、この時、初めて知ったのです。

しかし、私はテキサスに戻ることにしました。ロスの留学生達は何もないテキサスに戻る私を理解できない!という顔つきで見送ってくれました。勝崎さんは私に、「とにかく信念を持て。お前がアメリカに来た意義を自分で探し出せよ!」と言ってくれ、握手をして別れました。「任せてください!」と威勢よく答えたものの、再びテキサスへ戻る私の心境は、決して晴れ晴れしたものではありませんでした。




 <第9話> 滞在ビザが切れる! アメリカよ、さらば!
9月に入ると私のアメリカ滞在ビザの期限が残り1カ月となりました。ビザ(滞在査証)は大変に厳しく、これは経験しないと分かりません。観光ビザや留学ビザが一般的に馴染みがありますが、働く場合は労働ビザが必要となります。が、まず労働ビザを申請しても不可となります。外国人がその国で働くということは、その国で確実に失業者が生まれると見なされ、雇用機会を外国人に奪われた事と同意語になるからです。

働くにはビザが要る、でもビザが取れない、働けない、生活できない・・・頭の中でビザに関わる全ての要素が知恵の輪のようになっていました。私がテキサスに滞在していた1990年は、今のようにインターネットも無い時代ですから、外部とのやり取りは電話か手紙に頼る意外ありません。電話と手紙を利用しながら、自分がアメリカで生活したり働いたりすることの可能性を探し求めましたが、そこでビザの厳しい現実を知ったのです。

その結果、私がアメリカで雇用主を見つけ、労働ビザを取得し、働きながら社会生活を営むことは不可能だ、という結論に達しました。少なくとも、残り1カ月の滞在の間に、そのヒントや方向性を見つけることすら困難であるならば、潔くアメリカから出よう! と決断しました。

アメリカにこだわり、アメリカしか見えていなかった、それらを全て諦めてみると、「世界はアメリカだけじゃないんだ」と、改めて気が付きました。ところが、アメリカのことすら満足に分かっていなかったのですから、他の国のことなど分かる訳もありません。隣国はカナダとメキシコ。サンアントニオは人口の半数がメキシコ系で、気候も似たような乾いた熱さのメキシコに対しては、全く興味が湧かなかったのです。カナダ? 「寒いだろうな・・・ 夏でも雪が降るんじゃないか? 氷の世界だ」私が抱くカナダのイメージは、こうしたものばかりでした。

10月上旬、サンアントニオを後にしてカナダのバンクーバーに向かいました。何度も乗り換える航空チケットを買う方が圧倒的に安かったので、確か、サンアントニオ〜ダラス〜フェニックス〜デンバー〜サンフランシスコ〜シアトル と乗り継いだと思います。バンクーバーに到着したのは夕方。

乗り換えるたびに、アメリカ大陸を北上していく訳ですから、気候の違い、季節の違いを体感できます。アメリカってでかいなあ・・・ と改めて思います。やっぱりアメリカは魅力的だと感じつつ、飛行機の窓から大地を眺めます。もう一度チャレンジできるものなら、アメリカに来たい!絶対に来たい!でも今、自分が乗っているのは、カナダ行きの飛行機。アメリカから去るために乗っている飛行機。出てくるのは溜息ばかりでした。

この時の私は、アメリカで何も得られず見つけられないまま、アメリカを去ることのショックが大きく、これから向かうカナダに対しては、ほとんど何の希望も夢も描いておらず、期待すらしていませんでした。




 <第10話> 初めてのカナダに降り立つ
1990年10月上旬 バンクーバー国際空港に到着。テキサス州から半日掛かりの長旅を終え、バンクーバーの空気に触れました。この時の感覚というのは、10年以上経った今でもはっきりと覚えています。澄み切った空気がひんやりと肌に心地よく、寒からず暑からずの気候。テキサスから予定外のカナダ入国でしたから、手元には一切の資料やガイドブック、「**の歩き方」も持っておりませんでした。

ですがテキサスの半年間の経験は、私に妙な落ち着きと度胸を与えてくれたと思います。言い換えれば開き直りの心境だったと思います。「たかがバンクーバーで1週間の滞在だろ」「どうってこと無いさ」と。まず空港内の売店でバンクーバー市内の地図を買い、町全体を把握。地理や方向感覚に絶対的な自信があったので、私なりに仮説を立ててみました。住宅街はここ、ダウンタウンはここ、富裕層エリアはここ、ビジネスエリアはここ、観光者が訪れるのはここ、と地図に印をつけていきます。

そして想像していたより、バンクーバーという町が小さいことも分かりました。これは当時の私の感覚がテキサス州のサイズが基準になっていたためです。こんなに小さな町なら、移動も簡単だろうと思い、レンタカーを借りることに。レンタカー会社のカウンターに行き、早速お願いしてみました。対応してくれたカナダ人女性は恐ろしく親切で、私の顔を見ても嫌な顔すらせず、日本人だと分かっても態度を変えずに丁寧に説明してくれました。

カナダという国が親日的な国家であり、特に日本と歴史的な繋がりの深い西海岸地域は、これが当たり前だと分かったのは、それから後のことです。予備知識も無い町を地図だけを頼りにレンタカーを運転していたのですから、今思えば、よくあんなこと出来たなあ、と思います。空港からダウンタウン、スタンレーパーク、イングリッシュベイからUBC方面に車を走らせ、途中で見つけた安っぽいモーターインに宿泊しました。

ひび割れた褐色の大地が延々と広がるテキサス州サンアントニオを離れてまだ24時間も経過していないのに、いつの間にか、バンクーバーの気候がすっかり気に入ってしまっていたのです。夕食を取るために、近くのレストランに入りました。何を食べたのかは覚えていませんが、店員の態度が穏やかで優しかったことに感動しました。この町なら、日本人だと名乗っても差別されない? 嫌な顔されないのじゃないだろうか? 「お味はどうですか?」と店員が話しかけてきました。私は日本人であることを告げると、店員はニコニコ笑って、「日本人の人たちはバンクーバーにたくさん旅行にきますね。」と普通に言うのです。

親日的なカナダでは当たり前のことですが、当時の私はテキサスでの激しい日本人差別を受けていたので、自ら日本人と名乗ることが恐かったのです。もし日本人と名乗ったら、優しそうにニコニコ笑っていた店員の笑顔が消え、睨みつけられるのじゃないだろうか?という不安がいつもありました。しかし初日に会話をした空港の職員、レンタカー会社の係員、売店の店員、宿の係員、レストランの従業員、彼らは皆、普通に接してくれたのでした。

 ???このバンクーバーという町は日本人を嫌がっていないのかもしれない。そんなことってあるのだろうか? このテキサスとの違いは何なんだ?頭の中で堂々巡りが続きながら、初日を終え、2日目の朝を迎えました。快晴で爽やかな気候。軽井沢なんて比較にならない爽やかさ。時間が勿体なく感じてしまい、早朝からレンタカーを運転し、バンクーバーのダウンタウンに向かったのです。




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