カナダ人が将来 住みたい憧れの町 ケロウナで・・・
疲れた心を癒しませんか・・・
これから先の人生に必要なヒントとエネルギーが必ず得られるはずです

  
  
  

滝澤のカナダ移住&起業への道のり

 <第11話> ワーキングホリデーの制度を知った!
バンクーバーのダウンタウンにロブソンという一角があります。ブティックやお土産店が建ち並ぶバンクーバーで最も賑やかな地区。日本語の看板も、日本人観光客の姿も多く見られる中、私は日本食品の雑貨屋に立ち寄り、現地の日本語新聞を購入しました。その新聞「バンクーバー新報」は、日本のニュースやカナダのニュースが全て日本語で書かれています。食い入るように読みあさりました。


その中に、貸部屋や居候、同居人の募集、宿泊所の紹介が載っており、ある欄を見たときに、「よし!今日はここに泊まろう!」と決めました。「短期&長期、観光&ビジネス 誰でも歓迎 朝夜2食付き 電話・・・・」早速、電話をすると今日は部屋が空いているから、ということでした。ノースバンクーバーに住む浜田さん夫妻は、カナダに移住してから自宅を開放して日本人の旅行者を幅広く受け容れていらっしゃいました。浜田さん宅にお世話になっていた間、今までの経緯を事細かく説明し、久しぶりの日本語会話を楽しんでいたと記憶しています。

「ずいぶん、無茶をしたんだなあ・・・」と呆れるやら、感心するやら、という浜田さん御夫妻から、ワーキングホリデー制度を聞かされました。ワーキングホリデー制度とは、日本とカナダの相互ビザ協定の中に定められた若者のための有り難いビザ制度です。普通、観光ビザで労働をすることは禁止されています。もちろん働くには労働ビザが必要なのですが、労働ビザは日本企業の海外駐在員など、よほどの理由が無い限り、申請してもまず認められないのが常識です。

ところがワーキングホリデービザというのは、当時は18歳から25歳までの日本人であれば申請でき、働きながらカナダに滞在できるというもの。期限は1年という条件付きであっても、こんなに便利で申請から取得が楽なビザがあったのか! と宝物を見つけたような嬉しさでした。

そのビザを取得してカナダに戻ってくれば、少なくともテキサスにいた時よりもチャンスが見出せる可能性があるのではないだろうか?しかし、アメリカで形にならなかったからといって、安易にカナダに鞍替えするのは正しい選択なのだろうか?瞬間的な迷いはあったものの、アメリカをきっぱりと諦めて、カナダという国で再チャレンジすることを決意しました。するとカナダという国や文化、経済や産業に興味が湧いてきます。浜田さん夫妻にカナダについて徹底的に教えて頂き、頭にたたき込みました。

「それでは来年、またバンクーバーに来ますので宜しくお願いします!」浜田さんに別れを告げ、私はバンクーバー国際空港に向かいました。1週間の滞在で、まさかこんな手応えを得るとは想像もしていなかっただけに、来る時とは対照的に、希望に満ちた気分で一杯でした。「ようし、日本に戻ったらすぐワーキングホリデービザの申請だ!」意気揚々とバンクーバー発ロサンゼルス経由成田行きの帰路に向かうため、搭乗ゲートに進みました。




 <第12話> まさか! アメリカ合衆国出入国管理法違反
1990年10月のバンクーバー国際空港に朝早く到着しました。足取りも軽く、私は搭乗ゲードに進んでいきました。飛行機でカナダからアメリカに向かう場合、カナダ側にアメリカの入国窓口があることを、この時、初めて知りました。アメリカに到着する前に、事前に入国審査を済ませるべく、パスポートを提示し、入国のスタンプを押してもらわなければなりません。

私の番になり、ロサンゼルス行き、成田行きの航空券とパスポートを入国審査係官に渡しました。パスポートのページをパラパラとめくりながら、係官の顔色が変わっていったのを今でもはっきり覚えています。しばらくすると、入国管理局の係官とおぼしき男性2名が現れ、こちらに来るようにと促しました。そこはアメリカ入国管理局の取調室でした。

「アメリカに行く目的は?」と訪ねる係官に、私は日本に帰国する旨を告げ、ロサンゼルス発の成田行きの航空券を手渡しました。係官は顔色一つ変えず、「アメリカで約半年間、何をしていた?」という質問に対しては、上手く答えらませんでした。観光でも就労でも留学でもない。就職するはずの会社が倒産していたことや、それからの経緯を片言の英語で必死に伝え、「日本に帰国するだけです!」と懇願しました。

係官は慣れた顔つきで、「アメリカに半年滞在した後、カナダに出て、またアメリカに戻れば最低3カ月の観光滞在許可になってしまうが、それは認めるわけにはいかない。あなたのアメリカ入国は許可しない。」と。 「そんな!」 アメリカに滞在するのではなく、単なる乗り換えだけです!と必死に説明する私を無視し、係官は書類に書き込んでいきます。

私のパスポートに10桁ほどの乱数を書き加え、係官はこう言いました・・・
「お前は、今日から10年間アメリカ入国禁止だ!」と。
「まさか!」 何かの冗談か、聞き違いか、再度の説明を求めると、係官は一言づつゆっくり説明し始めました。
「これはアメリカ合衆国出入国管理法違反に適用される。10年間は米本土、ハワイ、北マリアナ諸島、アラスカ、全てのアメリカ領内への入国を禁ずる。」

「僕はどうすればいいのですか?」と訪ねる私に、係官は冷笑を浮かべて、
「そんなことは合衆国は関知しない。カナダにいるなり、カナダから直接日本に帰るなり、好きにするがいい。ただしアメリカには絶対に入国させない。」ショックでした。バンクーバー空港の片隅で、頭の中を整理しました。航空券が全て台無しになったことよりも、これが違法行為だったという事実。いつまでも落ち込んでばかりいても仕方ないと思い、日本航空のカウンターに向い、当日発の成田行きを片道で購入しました。カウンターの女性は「おかしなお客だ」と思ったのでしょうが、極めて事務的に当日発の片道チケットを発券してくれました。

バンクーバー発成田行きの出発時間まで6時間以上あったと思います。それから飛行機が飛び立つまでの間、これからのことを考え続けました。アメリカでの半年間は何の成果もなくやり過ごし、あげくの果てには出入国管理法違反・・・ 10年間のアメリカ入国禁止・・・このまま諦めて日本に引きこもったら、悔しくて一生後悔するだろう。そう考えると、夢や希望というよりも何かに対する敵討ちのような心境でカナダへ戻り、再チャレンジすることを改めて決意したのです。




 <第13話> 半年ぶりの帰国と新たなスタート
1990年10月中旬。バンクーバーを飛び立った成田行きの日航機の中には、新婚旅行とおぼしきカップルや団体旅行客が大勢いました。皆、顔つきは明るく「カナダを満喫した!」と語っているかのようでした。私は一人、身を縮めながらミジメな感情にふけっていたと思います。この半年間・・・ テキサスでまさかの会社倒産と吉田さんの脱税逮捕劇。その後の激しい日本人差別を受けた毎日。


スーパーでは釣り銭を投げつけられ、町では「あっち行け!」と怒鳴られ、テレビのニュースでは連日のジャパンバッシングの嵐。ようやくカナダという光明を見出したかに見えた矢先、アメリカ入国拒否と10年間のアメリカ入国禁止という処罰を受けた、つい数時間前の出来事。そんなことを色々と考えるうちに、機体は成田の滑走路に着陸。私の半年ぶりの日本帰国は、今思い出しても最低の帰国だったと思います。

所持金の全財産を日本円に替えたら、わずか3万数千円。大卒1年目の大人の全財産が、たったこれだけでした。しかも無職で、いわば失業者同然。これからの先行きの見込みも、将来設計も何も持たない当時23歳の私でした。 「カナダだ! カナダに行く!」 前向きに考えられる唯一のヒントはカナダ。でも、カナダに行ったからといって何があるのか?何ができるのか?

翌日、在日カナダ大使館に伺い、ワーキングホリデービザを申請しました。当時の申請は非常に簡単で、健康診断を受け、3カ月後にはビザ発給でした。ビザの発給さえ受ければ、あとは所持金を作るだけです。そう、とにかくお金を貯めることを何よりも最優先に考えました。ここでラッキーだったのは、当時はバブル期でしたから、その気になれば、短期間でお金を貯めることは、さほど難しい問題では無かったのです。また、テキサスで働きたくても働けない半年間が、労働に対する飢餓感を植え付けてくれたのか、アルバイトでも何でも働けることに喜びを感じましたし、高校〜大学で鍛えられたのか、疲れることを全く知りませんでした。

横浜市郊外の友人宅に居候をし、朝7時から夜12時まで休み無く働きました。朝7時から夕方5時までは宅急便の配達をし、夜は焼き肉屋でアルバイト。食事は焼き肉屋の従業員食を食べるのですが、1日の食事はこの一回だけですから、それこそ牛のように食べるので、他の人は随分驚いていました。

よく従業員の方たちから、「滝沢君はどうしてそんなに食べられるの?」と聞かれるので、いちいち説明するのも面倒だったので、「学校が日体大だっったんですよ。」と言うと、皆さん「なるほど」と納得していました。11月から1月までの3ヶ月間、この仕事を繰り返し、100万円ほど貯め、その後、志賀高原のスキースクールにインストラクターとして赴きました。 「芸は身を助ける」の言葉通り、長野生まれで3歳からスキーを始めた私は、大学4年の冬にこのスキースクールでインストラクターをしていました。

環境を変えつつ、効率よく収入を得る手段として、このスキースクールを再び訪れ、春までの間、お世話になったのです。このスキースクールは規律の厳しさではとても有名で、スキースクールのスタッフは、自由時間であっても一切の外出や外泊が許されず、常に上司の先生から監視されているような生活を送らなければなりませんでした。スキーインストラクターという見かけの華やかさに憧れて、多くの若い方たちが門下生として、このスクールに見習い助手としてやって来ていました。あまりの厳しさに夜逃げする人、泣き出す人が毎日のようにおりまししたが、私にとっては大学の野球部寮生活に比べれば、どうってことの無い山の気楽な生活でした。

やがて3月も下旬に近づいていくと、カナダ行きをいつにしようか、と考え始め現実の問題として毎日を悩むようになりました。本当にカナダに行くことに意味があるのか?などと逆説的なことまで考える始末。カナダに行ってもテキサスみたいになるんじゃないか?という不安も。




 <第14話> 勇気をもらった! センバツ準優勝
1991年3月。志賀高原もそろそろ遠い春の足音が聞こえてくる季節となり、カナダへ出発する日をいつにするか?を毎日考えていました。カナダという目標地点に到着することが、現実になるに従って妙な不安に襲われてきます。「テキサスみたいになったら、どうしよう・・・」
 
不安になればなるほど現状にしがみつきたくなるのは人間の性分なのでしょうか? それとも単純に自分が弱いだけなのでしょうか?クロネコヤマト宅急便でフリーターをしながら、冬はスキーのインストラクターをやっていれば、当時は結構なお金が稼げましたし・・・・

弱気な気持で悩んでいるうちに、3月下旬になりセンバツ甲子園大会が開幕し、母校・松商学園が出場するのをテレビで観戦しました。組み合わせは「超最悪」。一回戦から全て東西の優勝候補に囲まれたブロックで、お世辞にも松商学園有利とは言えません。初戦の相手は愛知・愛工大名電。プロ注目の鈴木一朗投手を擁する優勝候補の一角です。(鈴木一朗=現マリナーズのイチロー選手)

ボロ負けするんだろうなあ・・・・  という私の弱気な予想を覆し、終わってみれば、3−2の辛勝。その後も優勝候補を破り続け、

 1回戦 3−2 愛工大名電 

 2回戦 2−0 天理 
 3回戦 3−0 大阪桐蔭 
 準決勝 1−0 国士舘 
 決勝  5−6 広陵 

意外でした。まさかの準優勝。誰もが予想しなかった快進撃。上田佳範(日本ハム〜中日)投手をはじめ、その時の3年生は、私が2年前、大学4年の時に教育実習で教えていた時の1年生たちです。「あの時の生徒たちが、こんな大きなことやったのか・・・」何とも言えない感動と喜び。そして勇気を与えてもらいました。それなのに自分は今更、なにを不安に思っているんだ? カナダに行くだけじゃないか!その結果、テキサスみたにいなったっていいじゃないか!その時はその時だ!  そう思うとカナダに出発することに何の不安もためらいも無くなりました。「5月だ。5月に行こう!」そう決意しました。




 <第15話> 日本出発  カナダに向かう
1991年5月下旬。成田発バンクーバー行きの機体に乗り込む私。半年間、待ち望んできただけに離陸の瞬間は体が震えました。約1年前、大学卒業後にアメリカに飛び立ったお気楽気分とは裏腹に、その時の私の顔は期待と不安が交錯し、妙にゆがんでいたと思います。荷物は中型のスーツケース1個だけ。できるだけ身軽に移動が出来る、ただそれだけを考えた結果の持ち回り品で、余計な物は何もありません。

所持金は80万円。アメリカ帰国時のように所持金がゼロに近い状態になることを恐れ、30万円を郵便局の定額預金に入れてきました。「生きていく知恵」とは、こうしたことを意味するのでしょうし、痛い目にあって人間は知恵が付くとしたら、それまでの私には知恵が無さすぎました。定額預金に入れた30万円は、数年後、婚約指輪の購入費になりました。


予定航行時間通り、無事にバンクーバーに近づき、窓から見える景色はバンクーバー島でしょうか。ビクトリア市らしい町並みが見えました。大きく旋回した機体は、やがて慣れたように滑走路に着陸しました。バンクーバーの空は見事に晴れ渡り、遠くの山並みが良く見えました。カナダ入国審査を終え、次はイミグレーション(移民局)の窓口へ。ここで、カナダ大使館から送られた書類を係官に提出します。2つ3つの簡単な質問があり、ワーキングホリデービザの場合は、その主目的があくまでも「観光」でなければなりません。要注意のポイントです。

「英語を勉強したい」とか「頑張って働きたい」などと答えると、ワーホリビザ不適格者と見なされ、ビザ発給を拒否される可能性があります。「カナダに永住したいです」などは論外。物事には本音と建て前があるように移民局に対しては波風を立てない回答が望ましいのです。滞在許可とかビザの難しさは、昨年のテキサスや直後のアメリカ入国拒否、10年間入国禁止の経験から自然と身に付いていたのでしょう。少しは外国で暮らすための生きていく知恵が付いたのかもしれません。

形通りの質疑を終えると、無事にワーキングホリデービザが発給され、逃げるように移民局を抜け出し、空港の外に飛び出しました。当時は、今のように旅行会社や専門業者が、ワーホリ渡航者を対象にした各種滞在プランを商品化していなかった時代でした。バンクーバー空港の一階到着フロアには、同じ便でカナダに来たらしいワーキングホリデーの若者が、あちらこちらに散らばっていました。

皆、顔つきは不安気です。おそらく初めての海外なのでしょう。英語の不安もあるでしょう。今日はどこに泊まろうか?と悩んでいるのでしょう。インターネットが無い時代です。事前に同じワーホリ同士で知り合う機会も無く、それぞれが孤立しながら孤軍奮闘するスタートラインです。皆が「俺はカナダに来たんだ!」という満足感と最初の達成感に燃えているのですから、誰も「こんにちわ」などと気安く声を掛けようとしません。

「お前も俺と同じワーホリだろ?」と視線で確認しながらも、でも決してベタベタとへつらったり、「一緒に行きませんか?」などと頭を垂れません。男女とも皆がそれぞれ強気の姿勢を崩さないのです。「俺は俺だ!」当時のワーホリ渡航者は背骨がしっかりしていたと思います。近年は、気楽なパックツアー気分で業者にお金を払い、英語学校とホームステイがセットになったプランで表面的に満喫しているワーホリが多いように感じますが、考えてみれば勿体ない話です。

ワーホリビザ制度は自分の人生を、海外生活という舞台に導いてくれるのですから、観光ビザでも出来るような事をしても意味がありません。当時のワーホリは、私だけに限らず、皆がサバイバルだったのでしょう。恐らく色々な夢を求め、それを実現するためにカナダに来たと思います。「今日からの限られたカナダでの1年間は貴重だ。失敗はしたくないけど、チャンスがあったら、何でもやってみよう!」 改めて決心を固めました。




 <第16話> バンクーバー生活のスタート>
1991年5月。私のカナダ生活は、ノースバンクーバーの浜田さん宅でスタートしました。半年前、カナダに来た当時、お世話になったお宅です。 「カナダに到着した!」という満足感に浸っている私に、浜田さんは遠い昔の自分を投影されたような面持ちで、静かに語りはじめました。


浜田さんは多感な少年時代を「終戦」で迎え、いつしか豊な外国で活躍することを心に秘めながら、戦後復興期を日本で生活されていました。当時の海外移住とはブラジル移民を意味します。浜田さんもいつの日か、ブラジルに渡ることを夢見ていたそうです。そしてチャンスが来ました。視察でブラジルに行ったそうですが、初めて見たブラジルは浜田さんが憧れていた夢の国ではありませんでした。経済は疲弊し、先に移住した日本人の多くも、とても夢の生活を描いているとは思えなかったそうです。

少年時代から憧れていたブラジルの夢が消え、ガックリと意気消沈しながら帰国の飛行機に乗ったところ、乗り換えがバンクーバーだったそうです。まったく眼中に無かったカナダに魅せられたのは、その時だと言います。浜田さんは、夢を描く強い信念が、現実をもたらすことを私に諭しながら、「君はカナダに何をしに来たんだい?」と静かに尋ねてきました。静かな声ですが底に響くような重厚感があり、確実な回答を迫っているようでした。

「カナダで何をしたいのか?」 薄ぼんやりとイメージしていたことを、明確な回答にすることが出来ず、改めて自分の具体性の無さに気が付きました。それまでは、カナダに入国するために、カナダで1年間の生活をするために必要な「準備」が目的で、それをひたすら実行していれば良かったのです。しかし、現実にカナダに来てしまうと、次の段階に進まなければなりません。それには、「カナダで何をしたいのか?」という自分なりの答えが必要です。私のバンクーバー生活は、この答え探しからスタートすることになりました。

私は毎日、ノースバンクーバーからシーバス(海上輸送客船)に乗り、ダウンタウンまで出かけては、バンクーバーの隅々まで歩き続けていました。日本人で賑わうロブソンやガスタウン、都市空間と調和したスタンレーパーク、夕陽が綺麗なイングリッシュベイ、目に入る全ての風景が刺激となります。バンクーバーは不思議な町で、歩けば歩くほど、たくさんの魅力を体で感じることができました。そして答えを探し続けました。やがて、私の謎解きの旅は、「カナダで何をやりたいか?」 から、「将来、自分は何をしたいのか?」 に変換されていきました。




 <第17話> 将来、海外で事業家になる! と心に決める
1991年5月。バンクーバーの町は初夏に向かおうとする爽やかな日差しと、心地良いそよ風に満ちていました。この時、24歳だった私は、体力的に無理が利く年齢だったこともあり、先行きの不安よりも、町中を歩くだけで充分な満足感を感じていました。いや、今考えるとそれは若さだけで無く、日本に帰れば、いつでも適当な収入を得られる仕事が溢れていた、という時代背景があったと思います。


当時を振り返りますと、日本はバブル絶頂期(事実中の最終年)でした。一方のカナダは、様々に構造改革を行っていた最終局面だったせいか、国内の産業は、ちょうど変革期にあったように思います。バンクーバーの町は、多くの日本人団体観光客で溢れ、お土産屋などはいつも活況を呈していました。彼等が落とすジャパンマネーは、カナダの観光産業をはじめ、町そのものを大いに潤わせていたのでしょう。

そんな光景を眺めながら、私は相変わらずバンクーバーの町を歩き続け、「将来、自分は何をしたいのか?」 それだけを考えていました。カナダに来たとか、カナダで生活をスタートすると言ってみても、日本の常識では所詮、無職の男がカナダ旅行をしているだけに過ぎません。 私の同級生は教員になった者が大半で、残りはバブル採用とは言うものの、ほどんどが一部上場企業に就職して2年目を迎えていました。それを思うと「随分、置いて行かれたなあ・・・」としみじみ感じたものです。ところが、失望感に捕らわれることが無いのです。これは不思議でした。今、自分が置かれた状況を冷静に分析する余裕があったことは意外な発見でした。おそらくテキサス州での経験が生きていたのでしょう。

将来、自分はどうなているのか? 何をしたいのか? 30歳になった時、40歳になった時、50歳は? 60歳は? 仕事は? 職業は?

私は、長野県の商売家で生まれ育ちました。両親が経営する店の裏に住居が続いていて、家族とか生活と同意語に、「店」があり、「商品」があり、「お客さん」がありました。レジの音、お客さんの声・・・ 両親には一度たりとも「勉強しろ」と言われたことが無く、言われないから不安になって勉強していると、店から母の声が飛び込こんできます。
「修! 8時になったからシャッター閉めて!」
「修! こちらのお客さんのお荷物を車にお運びして!」
「修! この商品を棚に並べて!」
  
父は不思議な人で、おおよそ商店主とは思えない、どちらかと言うと土建屋気質のタイプでした。昭和40年代から50年代にかけて、「失敗したら首を吊る!」と覚悟を決め、店舗拡大や新規出店に心血を注いでいたように思います。加速度的な勢いでした。

私の育った環境は、こんな風でしたから、まるでDNAに商売が刻み込まれたかのような「門前の小僧」として成長してきました。カエルの子はカエル、とは良く言ったものです。「幼少期に育った環境はその後の人間形成に重要な要素を与える」大学で学んだ「発育発達論」に、確かこんな言葉があったことを思い出し、「そうだ! 商売だ! 自分で商売をやってみたい!」 その瞬間、私の進むべき将来の方向がハッキリと見え、カナダに来たことを踏まえ、「カナダで商売をはじめる!」と思い至りました。すると、バンクーバーの町中で見える風景が一変します。「もし、自分が商売をするとしたら?」という仮定に基づいて、大げさに言うなら市場調査のまねごとを始め出したのです。

人間は不思議なもので、プラス思考に切り替わると、いろいろなヒントやチャンスが舞い込んで来るものです。翌日、私は思い出したある人物に電話をかけました。そこから新しいカナダ生活がスタートすることになるとは、その時は想像すらしていなかったのですが・・・・・



 <第18話>  初めてのケロウナ
1991年6月上旬。澄み切ったカナダ西部の空の下、ビクターに連れられ、私はBC州のケロウナという、未だ知らぬ町に向かっていました。車はカナダ横断高速1号線を東に向かい、車窓に山肌が迫り、山峡の中を貫く風景を私に楽しませてくれました。山頂部には残雪が残り、数ヶ月前まで滞在していた長野の志賀高原を数倍にしたような景色は、まさに圧巻でした。

「ここは、ロッキーですか?」 何ともピントはずれの質問に、ビクターは「ロッキーはまだ遠い・・・ね。 これ、ただの山。」
山国の信州で生まれ育った私は、海よりも山に愛着を感じるせいか、今、目の前に広がるカナダの山並みに、すっかり魅了されたのです。1年前は、灼熱の太陽で乾ききり、ひび割れた大地の地平線が続くテキサス州にいたこともあり、外国で触れる山並みに安堵を得ました。

「日本では何をしていました・・・のか?」 というビクターの質問に、私は学生時代からテキサス州の体験までの経緯を、こと細かく説明しました。「オー!ノー! それはトラブルね。 アメリカは日本人、差別されるね。でも、カナダは日本人好きね。信用しているね。真面目ね。」
日系カナダ3世として、カナダで生まれ育った彼には、日本人が外国で受ける人種差別に対して、とても敏感に感じたようでした。

「でも、ボクのパパとママの時代、戦争の頃、その時のカナダの日本人も差別されていたね。苦しかったと思うね。でも、今そういうことダメね。」 彼の祖父母が和歌山県から大正時代にバンクーバーに移民したように、明治末期から多くの日本人がカナダに入植した歴史を教えてもらいました。彼のような中心世代は既に3世まで根を下ろし、その子どもたちは4世代目になっています。長い年月と歴史を感じました。と同時に、その時代の方々は言い現せない苦難や苦労が絶えなかったはずです。

過去の歴史観をしっかりと持ちながら、戦後の豊な時代に生まれ育ち、バブル経済に踊った時代に、ひょこひょこやって来た私のような者を、全く疑う素振りもなく、受け容れてくれた彼に頭が下がる思いでした。

半年間、激しい人種差別を受けながら、とうとう知り合いも友人も出来なかったテキサス州の経験から、私は冷めた心構えでカナダに来ました。それは「外国に来たばかりの日本人を相手にしてくれるようなカナダ人がいる訳ない。まともに話を聞いてくれる訳ないし、期待しても無駄。」 過度の期待を抱くと、裏切られたときのショックが大きいだけに、テキサスのような二の舞を踏まないための、私なりの予防策だったのです。ところが、今、私の横で運転をしているビクターという日系カナダ人は、1年前の私を慰め、強く応援し、受け容れようとしてくれています。

「こういう人を裏切ってはいけない」 瞬間的にそう感じた私の脳裏には、何の打算も無い忘れかけていた素直な回答がありました。バンクーバーを出て5時間余り。やがて、小さな町並みが道路沿いに現れはじめました。「あと10分くらいね。」 ビクターがつぶやきます。道路は高台から、右方向に下りながら走ります。次の瞬間、目の前に眩しい景色が広がり出しました。

大きく広がる湖。たくさんのモーターボードやヨットが湖面に青と白のコントラストを描いていきます。太陽の光が、まるで銀細工のような輝きを湖面に映し出し、その向こうに都市の町並みが現れてきました。
「ここ、ケロウナね。きれいな町ね。」 「きれいだ・・・」 見たこともない町の美しさに私は言葉を失いました。




 <第19話>  たくさんの出逢いが待っていた
1991年6月上旬。私はビクターの運転する車の助手席に座ったまま感動で言葉を失い、しばらくは瞬きが出来なかったと思います。やがて車は、下り坂から橋に向かいました。目の前に広がる巨大で美しい光を放つ湖に架かる橋を、車はまっすぐ渡りはじめました。

この湖がオカナガン湖という名前であること、南北160kmの細長い湖で最南端はアメリカ国境に達すること、そしてこの湖の畔にケロウナという町が広がっていること、をビクターが説明してくれました。また、湖に架かるこの橋は、浮き橋で北米第二位の長さ(1位はアメリカのキーウエスト)だということ。目線と湖面が妙に近く、行き交うモーターボートやジェットスキーが、手を伸ばせば届きそうな所に浮かんでいます。

橋を渡る車の窓を開けてみます。吸い込むとクラクラするような心地良い空気が、呼吸するたびに、まるで体内に吸収されるかのようです。内陸の湖なので海と違い、潮の臭いがしません。周辺の山々から精気となった冷涼な空気が、そのまま湖に染みこんでいるかのようでした。無意識に比較したのは、故郷の景勝地でした。軽井沢、上高地、安曇野、白馬、霧ヶ峰、美ヶ原・・・。私の知っている美しい景色とは、全く違った風景が、このケロウナという町全体を包み込んでいるのです。

私は幾度となく、「綺麗だ、綺麗だ」と繰り返しつぶやき、隣でビクターが満足そうに頷き、私の初めてのケロウナ訪問を歓迎するかのように、澄み切った青空と緑の木々、咲き乱れる花々が迎えてくれたかのようでした。橋を渡り、最初の信号を左折すると、ケロウナ市のダウンタウンがあります。このダウンタウンにビクターがオーナーを勤める日本食レストランがあります。

私は今日からキッチン見習いとしてビクターのレストランで修行をしなければなりません。新しい生活が始まるのです。 「スタッフ、全部で10人います。後で紹介します。」 というビクターの言葉に私は現実に引き戻されました。初めて見たケロウナの美しさに、幻覚にも似た陶酔感で頭が麻痺していたのですが、その言葉で我に返りました。ビクターの温厚で独特の雰囲気から、私は彼のレストランに従業員が10名もいるとは、全く想像していなかったのです。ビクターニシは、彼の優しそうな外見からは想像も出来ない、実はやり手の経営者だったのです。

時刻は夕方です。レストランは夜営業のための仕込み中とのこと。 「ここ、ボクのレストランです。」 ビクターが無造作に案内した場所はレストランの裏口でした。扉を開け、内部に進みます。 「ハロー! ビクター!」 「ハワユー?」 「ハ〜イ! ビクター!」 と調理場で働くスタッフから、一斉に明るい声が響き渡りました。そこに居るスタッフ全員が、にこやかに私を見つめています。 「ハ、ハロー・・・。マイ、ネーム、イズ・・・・・・・・・・・・・。」 この瞬間、自己紹介から私のケロウナ生活がスタートしました。そこには、思いもかけなかった出逢いが待っていたのです。




 <第20話>  面白い出逢いの連続
1991年6月上旬。カナダに入国してから1週間余り。気が付くと当初は全く予想もしなかった展開で、ケロウナ市へ来ていました。1年間じっくりとバンクーバーに腰を落ち着けて、将来のビジョンを組み立てていこう!という思いと裏腹な展開が早くも訪れたのです。ビクターニシが経営する日本食レストランは、この1年前にオープンしたばかりで、当初は苦戦していたそうです。彼の独特の日本食創作メニューが大ヒットし、私が訪れた時には、ケロウナ市でも有数の人気レストランに育っていました。

調理場は総勢6名。サービスと言われる接客に4名。常時10名のスタッフが、所狭しと忙しく動き回っています。調理場で飛び交う言葉は英語です。ふと見ると、オーナーのビクターよりも、人一倍大きな声を張り上げて、従業員に指示を与えている人物がいました。独特の訛がある英語です。

「あ!メキシコ人だ!」 瞬間的に私はそう思いました。1年前に半年ほど過ごしたテキサス州には、彼のようなメキシコ人が大勢いたことを思い出しながら、そのメキシコ人に視線を向けていると、

「キミ、名前は何ね?」 と彼が日本語で私に尋ねてきたのです。「このメキシコ人は日本語も話すのか・・・ すごいな。」 変な感心をしながら、私が自己紹介すると、そのメキシコ人は再び 「日本のどこ?」と尋ねてきたので、「長野県です。知ってますか?」

「オ〜〜! 長野ネ。長野って言えば、この春のセンバツ。松商学園は凄かったよゥ。」 このメキシコ人は高校野球にも詳しいのか? 「去年の夏は沖縄水産が準優勝だったんだぞ!」。メキシコ人は妙に高校野球に詳しく、日本語も意外と流ちょうでした。

「あの〜、あなたはメキシコ人ですよね?」 と私が訪ねると、「バッカ者! ボクは日本人なのョ!」 という答え。 「へっ?」 日本人にしては顔つきがメキシコっぽいし、日本語も上手とはいうものの、何かアクセントが変わっている・・・。 そのメキシコ人だと思っていた方は、沖縄県からカナダに移民した安座間(あざま)さんという方で、調理場の主任を務めていたのです。調理場のスタッフ達も、安座間さんを「ジャック」と呼んでいたので、まさか日本人だとは思ってもいませんでした。

気が付くと、調理場のスタッフが口々に、「ヘイ! ジャック! ユーアー メキシカン!」と言い、安座間さんが 「シャラップ! ユー!」と言い返し、あっと言う間に笑い声で包まれていきました。そして安座間さんから、レストランのスタッフを次々に紹介されました。10名のスタッフの内訳は、日本人1名、日系カナダ人3名、カナダ人7名という割合で、高校生のアルバイトが3名含まれていました。私が瞬間的に恐怖に感じたのは、「白人」のスタッフたちでした。またテキサスのように冷たい視線を向けられるのだろうか? と。

ところが、全く普通なのです。いや、心から歓迎してくれる笑顔で握手を求めてくるのです。これには心底、びっくりしました。そして初日から私は、安座間さんの直接指導を受け、天ぷらの仕込みに取りかかることになりました。

「天ぷら? 僕にできるのでしょうか?」 という私の不安な言葉に、「大丈夫ゥ。ボクが教えるから。必ず出来るから。」 沖縄の言葉というのは、意味もなく相手を落ち着かせる説得力があります。そして私は包丁を握り、野菜を切りはじめたのです。




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