カナダ人が将来 住みたい憧れの町 ケロウナで・・・
疲れた心を癒しませんか・・・
これから先の人生に必要なヒントとエネルギーが必ず得られるはずです

  
  
  

滝澤のカナダ移住&起業への道のり

 <第21話>  学園祭のようなレストランだった
1991年6月上旬。気が付くと、バンクーバーから内陸に450kmほど離れたケロウナという町に来ていました。到着したその日から、にし屋という日本食レストランで働くことになり、天ぷらに使う野菜を切ることになってしまいました。このレストランは、とにかく従業員同士のコミニュケーションが多く、いつも笑い声が絶えません。

同じ高校に通っているという高校生3人組(男子1名女子2名)は、年頃なのでしょうか、恋愛の悩み事を調理場に持ち込んできます。三者三様、口々に恋愛の悩み事を持ちかけてきます。彼等にとっての相談相手はこのレストランのオーナーや従業員だったのです。相談される方は30代40代ばかりでしたから、冗談を交えながらアドバイスし、高校生の3人は納得したり、からかわれたり、怒ったり、泣いたり。

「オサムはどう思う?」 彼等は私にも毎日相談を投げかけてきました。このレストランで彼等と一番年齢が近かったのが私でした。彼等の態度や目は、「日本から来た日本人」という見下したものは無く、純粋に年齢が近いから話しやすかった、ということだったのです。テキサスで日本人差別を受け続けてきた私にとって、彼等の純粋な接し方に戸惑いながらも、それをとても嬉しく感じました。

調理場はどんなに忙しい時でも笑い声が絶えません。その雰囲気を作っている中心が、安座間さんと高校生3人組でした。こんなことがありました。ある時、調理場にお客さんの老夫婦が入って来ました。老夫婦は注文した料理と箸を両手に持っていました。 「こっちの方が楽しそうだから、仲間に入れてくれないかい?」 と。カナダ人らしいジョークなのですが、益々、調理場が賑わいます。

「あのレストランの料理は美味しい」ということよりも、
「あのレストランの調理場は楽しい」という評判が広がっていたためです。

レストランは美味しく無ければならない。そして楽しく無ければハッピーじゃない。これがビクターニシの経営哲学でした。振り返って今の日本を見ると、企業はコストダウンや安売りばかりに気を取られ、本当の意味での「楽しさ」を忘れてしまっています。 消費者は目先の安さよりも、本質的な楽しさを求めているはずなのに。作為的に作られた見せかけだけの楽しさじゃなく、従業員が真剣になって笑ったり、怒ったり、泣いたり、という「楽しさ」が本当の「楽しさ」です。

仕事をしながら、みんなでこんなに笑い合えるのだろうか? お客さんまで吸い込まれてしまう不思議な魅力で溢れていた、この調理場で学んだ「本当の楽しさ」は、数年後に私が自ら起業した際の重要なテーマになり、今も私の哲学となっています。私がこのレストランの仕事に慣れ、従業員と仲良くなり、お互いに信頼しあえるまで、あっという間のことでした。

気が付くと、私が一番気にかけていた「日本人差別」というキーワードが完全に頭の中から消え去っていました。テキサス州で半年間、差別された結果の白人社会に対するトラウマが無くなったのは、このレストランの従業員のお陰です。「ケロウナに来て良かった!」 私の率直な想いでした。




 <第22話>  ケロウナで賭博デビュー
1991年6月。にし屋というケロウナの日本食レストランでの仕事とこの町での生活にあっという間に慣れた実感を噛みしめていました。季節は初夏の6月。梅雨の無いこの土地では、暑からず寒からずの「快適な気候」を体一杯に楽しむことができました。お昼過ぎになると、私はオーナーのビクターと一緒に、細かい仕入や会計事務所、銀行に同行しながら、午後を過ごしました。

午後3時頃、レストランに到着し、仕入た材料の運搬や整理、材料の仕込みに取りかかります。私はひたすら野菜を切り続けました。仕事の始まりから終わりまで、従業員同士のコミニュケーションが途絶えることがなく、とても充実した仕事をさせてもらいました。仕事がいつも通りに終わったある夜、安座間さんが突然、私に 「あんた、お金もってるかぁ?」と尋ねてきました。

財布に50ドルの現金があると答えると、安座間さんは「それ、僕に貸して!」と悪びれずに言うのです。大体、初対面から日が浅いというのに、金を貸してくれ、という人にろくな人はいない、というのが世の常ですから、本来でしたら、きっぱりと断らなければいけないのですが、私はつい貸してしまったのです。 「どうせ返ってこないだろうな」と半分諦めながらも、泣き寝入りするのはイヤですから、「何に使うんですか?」と私は彼に尋ねました。

「カシ〜ノよぅ」 「カシ〜ノ? カシ〜ノって何ですか?」 それが、CASINO(カジノ)だということが説明を聞いて分かりました。 「カジノ!」 賭博、危険な臭い、ギャンブル、マフィア、騙される・・・ 瞬間的に私の頭に浮かんだカジノのイメージはこうしたものでした。日本には無い賭博場カジノが、ケロウナのようなカナダの田舎町にも存在していることに、私は少なからずショックを受けました。

「あんたも行くかぁ?」という安座間さんの誘いに乗り、迷うことなく同行し、自分の50ドルの行方を見極めてやろう、と思い立ったのです。ケロウナのダウンタウンに、そのカジノはありました。当時は夜6時から夜12時までの1日6時間の営業だけで、狭い空間は、まるで田舎のラスベガスの縮小版のようになっていました。

安座間さんは、ブラックジャックというカードゲームのテーブルに座り、私の50ドルを赤いチップに両替し、淡々とゲームを続けていきます。安座間さんからルールを教わりながら、背中越しに見ているうちに、やがて何となくルールが理解できるようになりました。気が付くと、積み上がった安座間さんのチップは不安定になるまでの高さに達していました。彼はそのチップの10枚を私に手渡しました。

「これ、あんたから借りた50ドルでしょ。これで返したんだょ。」 赤い色のチップは1枚が5ドルですから、10枚で50ドルになります。私が10枚のチップを見つめていると、安座間さんが「あんたもトライしてみるかぁ? 僕がルールを教えてあげるよぅ。」悪魔のささやきです。私はためらうことなく悪魔に弟子入りを志願し、その悪魔の横に座ったのです。「まず、ここに1枚だけ置いて・・・」 それから悪魔が言う通りに、次のカードを引く、引かない、を右手で意思表示します。

気が付くと、10枚だったチップが50枚くらいになっていました。悪魔はそれ以上の枚数を手にしていました。小悪魔となった私も初めてのカジノで250ドルの大金を手にしたのです。その日以来、レストランの厨房での料理長と料理見習いの関係から、仕事が終わると悪魔と小悪魔に変身して連日、カジノに通い続けました。カナダにはパチンコはありません。競馬競艇の公営ギャンブルも無いに等しいです。その変わり、どの町に行ってもカジノはあります。

カナダの場合、このカジノの運営は州政府が経営する公営ギャンブルとなっており、トランプを配るディーラーや従業員は全て公務員です。日本は昨今、カジノ建設に向けて推進派と反対派の意見がぶつかっていますが、少なくともカナダのカジノのシステムを見る限り、そこに怪しい影も無く、健全で健康的な社交場というイメージに映ります。私のケロウナ生活は、レストランでの仕事と同時に、カジノが共存していたと言っても過言ではありませんでした。




 <第23話>  ケロウナの母と出逢う
1991年6月上旬。ケロウナの生活に魅力を感じつつ、晴れ晴れとした気分で、私は毎日を過ごしていました。この間、私が寝泊まりしていた場所は、レストランオーナーのビクターの家でした。奥さんと3歳の男の子、1歳の女の子の家庭でした。そんなつもりは無かったのですが、結果としてホームステイという体験をさせて貰ったのですが、私にとって居心地は良くありませんでした。ホームステイ代を払うと言っても、ビクターも奥さんのリンダも受け取らず、朝食は奥さんが優しい笑顔で毎日作ってくださるのです。

あまりにも申し訳なく、このままタダ飯、タダ泊まりという訳にもいかず、1週間ほど経過したある日、私は思いきってビクターに、 「ここを出て、どこかアパートでも貸ります。」と告白しました。日本人特有の「遠慮」が起因しているという微妙なニュアンスを彼は理解できなかったようで、瞬間的に私が逃げ出すと勘違いしたようでした。また、私が不都合を強いられている、と思ったようでした。そんなことは一切無い。とても快適に過ごさせて頂いているけれど、小さなお子さんを抱えた奥さんのことを思うとあまりにも申し訳ない。そうしたことをビクターに伝え、ようやく理解してもらうことができました。

「他人様からのご厚意を当たり前と思う奴は大成しない」 祖母に育てられた私は、いつも祖母からこう言われ続けていましたが、この時ほどこの言葉を鮮明に思い返した時はありませんでした。ビクターは私の荷物を車に載せ、「今日からは別の所で泊まってもらう。」 と私に言い、早速、車を走らせたのです。私は正直、ほっとしました。

ケロウナのダウンタウンを過ぎ、オカナガン湖に架かる橋を渡り、湖の反対方向に向かって車は順調に走ります。道路事情が良いので、時間に比べ、実際はかなりの距離を移動しているようです。やがてケロウナの隣町ウエストバンクに到着しました。この町に住んでいるビクターの伯母さんのお宅に、今日から御世話になるということを知り、私は久しぶりに緊張していました。カナダらしい小ぶりの一軒家が、ビクターの伯母さんの家でした。到着すると、ビクターは大急ぎで私の荷物を車から下ろしました。玄関の扉をノックすると、その伯母さんが現れました。ニコリともせず、私を疑い深そうな目で、ジロリと見つめながらも、しかしその表情が笑顔に変わることはありませんでした。

「彼、オサム。今日から伯母さんの家で泊めてあげて。」 とビクター。まるで、拾ってきた子犬を飼ってとせがむ子供のようなビクターでした。

「Why? このボーイをミーの家に泊めるのかい? ミーはイヤじゃ!」伯母さんの顔は明らかに迷惑そうな表情でした。私は敏感に察知し、ここで御世話になることは出来ないだろうから、早々に引き上げたほうが良さそうだ、と考えました。ところが、ビクターは「それじゃ、伯母さん、ヨロシク!」と言い残し、車で去って行ったのです。 「そんな! ちょっと待って!」私の顔は明らかにひきつっていたと思います。

困ったのは伯母さんも同じだったようです。しばらくの沈黙の後、 「ユー! 家にお入り!」 恐い声が背中越しに聞こえてきました。 「し、失礼します・・・」私は怖々と、この伯母さんの家に上がりました。伯母さんは一定の距離を私との間に作りながら、 「ユーの部屋はこっちじゃ!」と指図しました。

「こっちがミーのベッドルームじゃから、ユーは入ったらいかん!」
「は、はい、入りません、決して入りません!」
それにしても恐い伯母さんだ。今日からこの家で過ごすのか?そう考えた途端、妙に気持ちが滅入ってきたようです。




 <第24話>  信用されることが友達づくりの基本
1991年6月。ビクターの伯母さんの名前は、シゲコ・クラハシ。1年前にご主人を癌で亡くされた60歳の未亡人でした。家の中は小綺麗にまとめられ、上品な家具類は整然と並んでいました。クラハシ伯母さんは、綺麗好きで神経質な性格のようです。

「ユー! コーヒー好きか!」 威圧を含んだ強い声が響きました。私はコーヒーを頂戴するために、テーブルに向かいました。 「ユー! ユーはタバコ飲むんか?」 再びの強い質問に、私は思わず 「あ、いえ、あの・・・ 吸いません・・・」 と嘘をついてしまいました。このお宅の正面玄関のドアに、「NO! SMOKING」 と書かれていたため、とても、正直に申し出ることは出来ませんでした。

伯母さんは、初めて私に笑顔を見せながら、「そうじゃろ。ミーのハズバンド(ご主人)は、タバコ飲み過ぎて癌になってしもうた・・・。だからミーはタバコは好かんのじゃ! ユーも飲んだらいかんよ!」 困りました。いつかはバレる。でも、今更、正直に言ったところで、何がどうなるだろうか・・・。 少しづつですが、伯母さんの表情が穏やかになりながら、日本の想い出話を聞き、私も積極的にその話題に参加しました。その昔、伯母さんの祖父母がカナダに移住したため、伯母さんの両親はカナダ生まれの日本人(日系カナダ人)でした。太平洋戦争の直前、危機を察知したご両親は日本に逃げたため、このクラハシ伯母さんは、日本で生まれたということです。終戦後、ご両親と一緒に祖国のカナダに戻ったという歴史をお聞きし、その時代の複雑さと悲劇の中を生きてこられた強さを痛感しました。伯母さんは古いアルバムを私に見せながら、「日系カナダ人の歴史」を教えてくれました。どれも初めて知る日本人の歴史でした。

2時間ほど、伯母さんとお話をしたことで、私に対する不安感が払拭されたのか、伯母さんの顔は優しく穏やかな表情に変わっていました。しかし、油断はできません。せっかく出逢えて、仲良くなりつつある中、信用を失うことは避けなければなりません。 「ユーとミーは、グッド・フレンドになれそうじゃ!」 と言った伯母さんの期待を裏切らないようにしなければ! 私は強く心に思いました。やがてビクターのレストランへ仕事に行く時間になりました。私は、前日に購入したばかりのマウンテンバイクにまたがりました。

「気をつけて行くんじゃよ! ハイウェイはカーが多いんよ!」
「大丈夫です。それじゃ、行ってきます!」
ここからケロウナのダウンタウンまで13km。「ちょっとした運動だな。」と思いつつ、私はハイウェイ97号線の車道を走りました。しばらく走ったところで、私は自転車を降り、「やれやれ」という気分でポケットからタバコを取り出し、火をつけました。
「最初は恐かったけど、でも、いい伯母さんだなあ。仲良くなれそうだ。」そう考えると、いつになくタバコも美味しく感じられたのでしょう。しかし、私がタバコを吸っている姿を、高性能の双眼鏡で見ていた人がいたことに、私は全く気が付きませんでした。双眼鏡で私を見ていたのは、伯母さんだったのです・・・



 <第25話>  嘘ついて・・・ 謝って・・・
1991年6月。ケロウナのダウンタウンにあるビクターのレストランは連日の大忙しで、お客さんの波が全く途切れません。厨房の中で雑用に追われていた私ですら、「繁盛しているお店だな」 と感じることが出来たほど、この店には独特の活気がありました。レストランは夜10時閉店です。後かたづけを済ませると、従業員たちは好きな飲み物を手にして、30分ほど談笑に更けます。

私が再び自転車に跨り、クラハシ伯母さんの家を目指すのは夜11時を過ぎた頃で、初夏の夜風を全身に受けるのは、とても快適でした。ハイウエイ97号線をケロウナからウエストバンク方面に向かう夜道はいつも決まって向かい風でした。坂道も適度にきつく、往生しました。クラハシ伯母さんの家に到着するのは夜12時近くなっていました。静かにシャワーを浴び、ベッドにもぐりこみました。

翌朝のことです。「伯母さん、おはようございます!」元気に挨拶した私を無視するかのように伯母さんの表情は強ばっています。 「あれ?どうしたんだろう? 昨日はとても穏やかだったのに」 私が不思議な気持ちを抑えきれないでいると、伯母さんが私を見つめ、

「ユー! ユーはミーに嘘をついていたじゃろ!」 と言い放ちました。私は瞬間的に凍りつきました。 「ま、まさか・・・ タバコか?」

「ユー! 昨日ここを出て何をした? ミーは全部ウォッチしたんじゃ」
「あの、その・・・ すいません。」 私は謝る意外に何も出来ませんでした。

私が自転車でハイウエイを通ることを心配した伯母さんは、双眼鏡で私の移動をずっと見ていたそうです。事故に遭わなければ良いが・・・という伯母さんの願いとは裏腹に、路上でタバコを吸い始めたのですから、さぞビックリしたことでしょう。 「ミーは嘘をつかれるのが嫌いじゃ! ユーは嘘をついたんよ。」 こう言われてしまっては、もはや返す言葉もありません。

「伯母さん、すいません・・・」そう言うのが精一杯でした。頭の中に、気の利いた言葉も浮かばず、ただ謝るだけでした。すると突然、伯母さんは今までに見せたことの無い満面の笑顔で、「もう嘘をついたらいかんよ。男は正々堂々としなきゃいかん!」 あれから10年以上経った今でも、この時の光景は忘れません。強く厳しく叱って、優しくフォローする。伯母さんの姿勢には、中途半端な態度は一切無く、真剣味に溢れていました。




 <第26話>  ミーは野沢菜を食べたい!
1991年6月。「タバコ事件」が一段落し、クラハシ伯母さんと私は、再び穏やかな時間を取り戻しました。私が長野県生まれの長野育ちだと知ると、伯母さんは突然、「あの! あれ! 美味しいかった葉っぱは何じゃったか?」 私はそれが野沢菜を指していることを察知し、「野沢菜だね?」と伝えると、伯母さんはしきりに「美味しかった」を繰り返します。

何でも数年前に日本へ旅行に行った際、宿泊先で野沢菜を初めて食した時の感動を忘れられなかったと言います。 「ミーは野沢菜食べたい!」 長野県人としてこう言われてしまっては黙っていられません。しかしカナダには野沢菜がありません。また、伯母さんは野沢菜は全てスーパーで売られている製造品だと思っていたようで、長野では各家庭ごとに漬けている、という事実を知らなかったのです。

「あの美味しい漬け物をどのファミリーも自分で作るんかい?」
「そうだよ。だから伯母さんも作ろうと思えば作れるんだよ。」
「ユー! ミーに教えてちょうだい! 野沢菜教えてちょうだい!」

しかし、私は野沢菜の漬け方を、全く知らなかったのです・・・。 私は長野の祖母に手紙を書き、一部始終を書き伝えました。2週間ほど後、祖母から封書が届きました。頼んで置いた野沢菜の種も同封され、祖母独特の漬け方が細かく手書きで記されていました。 「ミーはユーのおばあちゃんの漬け方と同じように美味しい野沢菜を作らないかんなあ。サンキューな。頑張って作ろ!」

クラハシ伯母さんはとても喜んでくれ、この年の夏に自宅の菜園に野沢菜の種を植え、秋に収穫し、野沢菜を漬けることに成功しました。それから数ヶ月後、久しぶりにクラハシ伯母さんのお宅を訪ねた時、私もこの野沢菜を御馳走になりました。

今では秋になると、クラハシ伯母さんは決まって、「ユーのおばあちゃんの野沢菜持って来たで!」と言っては我が家に持ってきてくれます。あの時の種が、1991年ですから13年もの間、カナダバージョンの野沢菜がクラハシ伯母さんによって、作り続けられている、というのはとても嬉しいことです。




 <第27話> ケロウナはゴルフ天国だった
1991年6月。私がカナダでやってみたかった事はゴルフでした。とにかくカナダのゴルフを思い切り満喫してみたい!というものでした。ケロウナには当時、18ホールのゴルフコースが5コースあり、その全てが素晴らしい環境と、信じられない安価な料金だったのです。1ラウンドが当時の値段で1500円〜2000円だったと記憶しています。私が毎日働いていた日本食レストランにし屋は、午後2時から仕事が始まりましたから、午前中から2時まではフリータイムでした。

「明日、ゴルフ行く?」 レストランの厨房で毎日、オーナーのビクターが私に聞いてくる質問でした。
「もちろん行きたいです!」と答える私に、料理長の安座間さんも加わり、アルバイトの男の子が加わり、ほとんど毎日ゴルフに行っていました。月曜日はレストランの定休日。月曜日になると私たち4名はソワソワします。この日は別々のコースで2ラウンドするからです。

ケロウナでゴルフを体験してしまうと、日本でゴルフをすることが料金、環境を比較しながら、とてもバカバカしく感じられてしまいます。ゴルフを全くやったことの無い人や、興味の無い人でも、この町でゴルフを始めて、すっかりその魅力に取り憑かれた方も大勢います。
ゴルフをしていると乗用カートを運転した女性が定期的に回ってきます。これは移動式の売店でコーヒーやジュース、サンドイッチを売っています。好きな時に呼び止めて、サンドイッチとコーヒーを5ドル程度で買います。そして食べながら飲みながら、ゴルフを楽しむのですが、こんなノンビリとしたゴルフの楽しみ方は、日本では絶対に出来ないことです。

こんな調子で、ケロウナに滞在していた1カ月半の間で、20回以上はゴルフを楽しむことが出来たのです。それ以来、「ケロウナでゴルフをしたい病」にかかった私は未だに原因不明の、この病が治りません。

ある日のことです。この時は異常な暑さに見舞われ、気温は35度を越えていたと思います。ゴルフバッグを肩に担いで18ホールを歩くのですから、さすがに喉が乾きました。ところが移動式の売店が全然やって来ないのです。水が飲みたい! と思いながら私が打ったボールは大きく曲がり林の奥に消えていきました。脚を引きずるように、ビクターと安座間さんと私は、ボールを探すために林の奥に入っていくと、何と目の前に泉が湧き出ていたのです。

透明に澄んだ泉は、冷たい水をいっぱいに貯めていました。私たちは大声を上げながら、両手ですくった水をガブガブと飲み続けました。この時の湧き水の美味しさと言ったら表現できません。地球上の真水は70%がカナダにある、と言われています。大自然で育まれた天然水の美味しさを実感できたことは今でも忘れられない想い出です。



 <第28話> ケロウナにやって来たもう1人のワーホリ
1991年6月。この時期のケロウナはサマータイムということもあり、また北緯49度ですから、夜10時で夕暮れ、夜10時半が日没です。1日がまことに長く感じられ、健康的に野外で過ごす夏のカナダライフは、お金をかけなくても贅沢な気分を満喫できるものなのです。ケロウナに来て、1週間あまりが過ぎようとした頃、にし屋のオーナービクターが急遽、バンクーバーに行くことになりました。その理由は、青木さんに、何やら急な用事を頼まれたためだそうで、夕方慌ただしく1人でバンクーバーに向かいました。

翌日になり、私はいつものように午後2時にレストランの厨房に入り、野菜を切る等、すっかり慣れた仕込み作業を始めていました。レストラン開店の時間になる直前、バンクーバーに行っていたビクターが戻ってきました。すると彼の後ろに小柄な日本人が立っていました。
  
「こんにちわ。キヨシって言います。」 小柄な青年は元気良く挨拶し、厨房の中をキョロキョロと見回し始めました。 「あんた、キヨシね? 僕は安座間だぁ」 真っ先に安座間さんがキヨシに自己紹介し、他のスタッフもこれに続きました。私はワーキングホリデーでカナダに来ていること、バンクーバーからケロウナに移動したこと、にし屋で働いていること、を伝えました。

ビクターが、「今日からキヨシもここで働いて貰うことになった。」とスタッフ全員に説明しました。キヨシもワーキングホリデーだったのです。まさかこんなに早く、しかもケロウナでワーホリの日本人に遭遇するとは思っていませんでした。何となく嬉しかったことも事実です。これは、その当時のワーホリも、今の時代のワーホリにも共通していることなのですが、日本を出発する前は、「カナダに行ったら日本人とはあまりつき合わないようにしよう。」などと考えます。

その理由は、英語の上達のためとか、せっかくカナダに来たのだから日本人はウンザリだ、などと誠に子供じみた発想に由来しています。しかし、実際に右も左も分からず、言葉も満足に喋れないワーホリの日本人が意気揚々と生活できるほど、外国生活は甘くありません。また、豊かな時代に育った私たち日本人は精神的に強くありません。  現実的にカナダで暮らし始めると、すぐにその厳しさを知るのです。私は一年前にテキサス州で、日常的な人種差別を受け続け、とうとう誰も知り合いが出来なかった半年間の苦い経験があったため、割合と素直に、このキヨシを迎えることが出来たと思います。

私は彼の素性を尋ねました。すると驚いたことに、長野市出身で当時24歳で私と同じ年でした。私の出身地(長野県更埴市)と長野市は隣同士で、学区も同じということが分かりました。キヨシは長野南高校卒で、私の中学時代の同級生の数名が、キヨシと同じクラスだったことも判明し、いろいろな共通点があったのです。ところが、ワーホリに来た目的や趣味趣向は、何一つ共通せず、結果的にキヨシとは、仕事以外でつき合うことはありませんでした。
  
私はそのほうが気楽でしたし、必要以上にベタベタする気もなかったのですが、キヨシも全く同じスタンスで考えていたと思います。この後、キヨシと私は4カ月ほど運命を共にすることになったのです。




 <第29話> レンタカー会社の女性
1991年11月中旬。鉛色の空が毎日続く季節になっていました。私は、バンクーバーへ移動するため、レンタカーを借りようと考えていました。何もレンタカーを借りなくても、バスを乗り継げばバンクーバーまで行けるのですが、時間を気にせず、途中の景色を楽しみたかったので、私は2日間だけレンタカーを借りることにしたのです。

チリワックという町で、私はレンタカー会社を目指して歩き出しました。 「レンタカー会社? 多分、あっちだよ」 道行く人に尋ね、その人が指を指した方向へ、私は真っ直ぐ歩き出しました。ダウンタウンとおぼしき町並みが無くなり、ただでさえ寂しい町並みは、ますます寂しくなっていくばかりでした。私は両手をコートのポケットに入れたまま、無造作に歩き続けていました。

やがて地元の会社らしいレンタカーの営業所を見つけました。ここまで、かなり歩いたような気がします。受付カウンターがあるらしい建物のガラス扉を押し、中に入りました。そして、私は全く予想をしていなかった光景を目にしました。受付に座っていた女性が嗚咽を漏らしながら泣いていました。泣いている女性の後には、大柄な女性が仁王立ちし、私には理解できない早口の英語で、泣いている女性を叱っているようでした。

何か仕事上のミスをしたのでしょうか? 大柄な女性は、カウンター奥の部屋に戻り、残された女性は相変わらず嗚咽を漏らしながら泣いていました。

「あのう・・・」 私はその女性に話しかけました。
「すいません・・・ 何かご用でしょうか?」 ようやく女性は、私の存在に気が付き、涙目のまま、私に笑顔を向けてきました。レンタカーを借りたいことを伝えると、あとは事務的な手続きになります。書類に記入し、免許証を提出しました。免許証の他に、身分証明書の提出を求められた私は、パスポートを涙目の女性に手渡しました。

「あなた、日本人なのですね!」 涙目の女性は、興味深そうに私のパスポートを眺めていました。
「1967年生まれなのね。それじゃ、私と同じ24歳ね!」
涙目の女性は、にっこりとほほえみながら、「カナダに留学ですか?」 と、私に尋ねてきました。

「いえ、ワーキングホリデーで来ています。」
「ワーキングホリデー? それは何?」 

私は涙目の女性に、ワーキングホリデーの概要を説明しました。 「すごい! それって、とてもエキサイティングね!」いつの間にか、彼女の笑顔は本当の笑顔に戻り、ワーキングホリデーに興味を抱いたようでした。見知らぬ異国の地で、生活を続ける面白さを想像したのでしょうか。涙目の女性は、「私にも出来るかしら?」 と問いかけてきました。

「もちろん! あなたにだって出来ますよ! ワーホリの年齢制限内ですから、申請すればビザが発給されますよ。あなたにも出来ますよ!」
「そう! 私にも出来るのね!」 彼女の笑顔は頂点に達しました。が、彼女は再び涙目に戻り、「でも出来ない。私には出来ない・・・ 」 そう言うと、彼女の目は、また涙が溢れはじめました。

どういう事情があるのか、私には聞き出すことが出来ませんでしたが、おそらく経済的な理由を伴うことは確かなようです。1991年当時から今日に至るまで、日本人の若者は、それなりの資金を確保した上で、ワーホリ制度を利用して外国へ飛び立ちます。しかし、カナダ人で20歳代の若者が、必要な資金を自力で貯め込むのは、現実問題としてかなり厳しい状況だと言わざるを得ません。こうしてカナダに来ていられる有り難さを、その女性の涙で、改めて思い知らされたような気持ちでした。



 <第30話> バンクーバーへ向かう晩秋の道
1991年11月中旬。バンクーバーへ向かう空の色は、久しぶりに晴れ渡っていました。しかし、その青さは冷涼に満ち、薄く透き通ったまま、夕暮れを急いでいるかのようでした。トランス・カナダ・ハイウェイ1号線を使えば、わずか1時間足らずのバンクーバーまでの距離を、私はゆっくり味わうように、5号線上をレンタカーで走っていました。

山並みは黄葉の最終ステージを迎えていました。夕陽に照らされた木々の葉は、まさしく黄金色に輝き、私はアクセルを踏む足の力が、どんどん弱くなるのを感じていました。何度、車を停めたことか覚えていません。カメラを持っていなかった私は、網膜の奥の奥まで、黄金の景色を確かに焼き付けていました。緩やかな風に吹かれた黄金色は、一枚一枚、その姿を地上に落としつつ、無言のまま冬の到来を告げていたのです。

「もうすぐカナダの冬がやって来る」 
春から夏にかけてのカナダは、喧噪に満ち、退屈することを忘れさせてくれるのですが、これから訪れる冬という季節は、一体どんな体験をさせてくれるのでしょうか?

夕暮れになる頃、私はようやくバンクーバーの灯りを見つけました。夕暮れから暗闇になるまでの時間が、特に短く感じられました。身に染みる寒さはありませんでした。しかし、私はこれからの身の振り方に思いを募らせながら、溜息混じりの独り言をつぶやき続けていました。

「バンクーバーか・・・ バンクーバーで何をしようか?」
「これから先の将来は、どうなるんだろうか?」

バンクーバー市とノースバンクーバー市を隔てるコールハーバーに沿って、私は慎重に車を進めていました。大都市の夜景が間近に迫ってきます。これから自分はどうなるのか? どうしたいのか? 相変わらずそればかりを考え続けたまま、私はバンクーバーの灯りの方向に、真っ直ぐ車を走らせて行ったのです。




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