カナダ人が将来 住みたい憧れの町 ケロウナで・・・
疲れた心を癒しませんか・・・
これから先の人生に必要なヒントとエネルギーが必ず得られるはずです

  
  
  

滝澤のカナダ移住&起業への道のり

 <第31話> 歩き続けたバンクーバーの町
1991年11月下旬。晩秋のバンクーバーは、その全てが鉛色で染まっているかのようでした。すっきりと晴れ渡る日は少なく、今にも落ちてきそうな濃い色の雲が、いつも真上にありました。私はノースバンクーバーで、B&B(朝食付きの簡易宿泊所)を営む日本人ご夫婦のお宅に転がり込んでいました。

よく、ワーキングホリデーや留学を志す方が、海外に行ったら日本人とは接したくないとか、日本人の少ない町、いない町に行きたい、等という意見を多く耳にしますが、外国暮らしの現実を知らない人に限って、そういうことを言うのだと思います。

戦後生まれの私たちは、本当に恵まれた物質社会の中で、安易に平和を享受してきました。「平和ぼけニッポン」と言われるほどの、平和の中で生きてきたのです。ですから、日本で暮らしているだけでは、外国生活の辛さや厳しさが実感できず、良いことばかりを夢見てしまいがちです。

そんなに甘くない、ということを既に実感していた私は、迷うことなく日本人のご家庭にお世話になったのです。聞きたいことがたくさんありましたし、相談に乗って頂きたいこともたくさんありました。それらは、日本人でなければ到底、理解不可能な事柄ばかりだったのです。

私は、無計画に毎朝、バンクーバーのダウンタウンに向い、ひたすら歩き続けました。地図を持たずとも、風景や通りの名前で方向を見定め、まるで何十年もこの町に住んでいるかのように、慣れた足取りで徘徊していたのです。お腹が空くと、ダウンタウンのはずれのチャイナタウンに向い、さらに奥に入り、危険な香りが漂う当たりの、汚らしい中華料理屋で中華焼きそばを食べ、歩き疲れると、付近のカフェでコーヒーを飲みながら、タバコを吸い、今後のことを思案していました。

11月のカナダは一年でもっとも寂しい季節です。観光都市バンクーバーも例外ではありません。その寂しい風景の都市の一角で、私はいろいろなことを考えていたと思います。時間もある、暇もあるが、やることは無い。人間はこうなった時には、様々なことを考えるのでしょう。ここまで考えることというのは、後にも先にも無かったように思います。暗く寂しい11月のカナダは、私に考える時間をたくさん与えてくれたのです。



 <第32話> ウィスラーに向かう
1991年12月上旬。バンクーバーからウィスラーに向かう定期バスに乗り込んでいた私は、移り変わる鉛色の空と山並みを見つめていました。そろそろ何かアクションを起こさなければ! と思いつつも、具体的な方法が見つからない毎日に区切りをつけるため、カナダ第一位の世界的な高級スキーリゾート地のウィスラーに私は向かったのです。今さらスキーをしたい、などとは思いませんでしたが、スキーインストラクターだった私にとって、役に立ちそうな「技術」はスキーしかありませんでした。

「もしかしたらインストラクターの仕事に就けるかな?」等と都合の良い想像をしつつ、バスの固いシートに、おとなしく座り続けていたのです。覚悟はしていたものの、バンクーバーから遠ざかるにつれ、景色は寂しさの度合いを深めていきます。町らしい町は途中にいくつかありました。

それら寂しい町でバスが停車し、しばしの休憩となるたびに、私はバスを降り、あたりを見渡しました。わずかな人影とわずかな建物しか見えません。
「こんな寂しい町に住んでいる人がいるのか?」 私の素直な感想でした。

しかし、それはカナダ全体に共通していることなのかもしれません。特にこの当時はカナダが不景気だったこともあり、夏が終わると活気が無くなり、人々は一斉に冬支度に備えて家に籠もってしまうかのように感じました。もともと単独でアメリカ、カナダを渡り歩いていた私にとっては、華やかさよりも、薄暗さや寂しさを海外で感じることが多かったため、普通の人よりは慣れていたと思うのですが、やはり気持ちの良いものではありません。

この先にあるウィスラーという巨大リゾートに対する想いも、無意識のうちにかなり薄くなってきている自分に気が付いていました。私の乗ったバスは、順調に山間のハイウェイを進んでいきました。細長い木々の密集具合は、標高がかなり高くなっている証拠です。その密集した所々に、うっすらとした雪が見え始めました。やがて、山間に不似合いな建物やログハウスがちらほら現れました。それらの建物が、風景に不釣り合いなほど沢山の数となり、やがて風景を飲み込むほどになるまで、つかの間の出来事だったと思います。

もはや私の目の前には、堂々たる世界的なリゾートが迫っていたのです。そのウィスラーというリゾートは、私が知っている長野や新潟あたりのスキー場とは比較にならないほど、得体の知れない迫力を持っていました。

「ウィスラーか・・・ この大きさは凄いな。」 そう感じつつも、何か釈然としません。活気が無いのです。人の姿も見えません。 「一体、これはどういうことなんだ?」




 <第33話> 雪が無い!
1991年12月上旬。カナダ最大にして世界有数のウィンターリゾートウィスラーに降り立った私は、しばらくの間、無言で動けませんでした。見渡す限りの銀世界をイメージしていたのですが、目の前に広がる風景は泥色に包まれ、その泥は冷たく光るだけだったのです。

「雪が無いじゃないか!」
私は呆然としながら、「ビレッジ」 に向かってのろのろと歩き出しました。ウィスラーは、ゲレンデの麓に「ウィスラービレッジ」を擁しています。このビレッジは近代的かつヨーロピアン調にまとめられた人工的な繁華街となっていて、レストランやホテル、高級ブティックやお土産店が実にバランス良く軒を連ねていました。本来なら、泥色に覆われず、白銀の中にそびえるビレッジは、壮大であり、また感動的なはずだ、ということを私はイメージしていました。

しかし、私の目の前に広がるビレッジは泥色でした。まるでゴーストタウンのように、人の気配が感じられません。事実、レストランやお店のほとんどは営業をしていませんでした。ビレッジの隅から隅まで歩き続け、おおよその位置関係と広さを把握し、やっと見つけた営業中のコーヒーショップに立ち寄ることができました。熱いコーヒーを1杯。ずいぶん骨身に染みる美味しさでした。ウエイトレスの若い女性に、
  
「12月だっていうのに、こんなに静かなの?」 と訊ねると、
「だって、雪が降らないもの。今年のシーズンは遅いわよ。」

ウエイトレスの若い女性も、すっかり気落ちしたような表情でした。
「そうか、カナダも暖冬なんだな。日本だけじゃないんだ。」

カナダの12月、しかもウィスラーなら、雪がたっぷりあるはずだ、と思い込んでいた方が間違っていたのかもしれません。現在のウィスラーは、人工降雪機が設置されていますが、当時はまだその設備が無かったと思います。ゲレンデらしい斜面には、枯れた茶色の草が泥にまみれて汚らしく固まっているだけでした。

「ゲレンデの積雪0cm。これじゃスキーにならないなあ・・・」
雪国の信州で生まれ育った私は、雪景色が生み出す寒さには慣れていましたが、泥が冷たく光る風景は、妙な寒さを感じるだけでした。しかし、せっかくウィスラーに来たのですから、当初の予定通り、次の仕事先に向かう以外に、私には選択肢がありませんでした。いつの間にか、すっかり空になったコーヒーカップをテーブルの上に戻して、私は重たく立ち上がり、ポケットから手帳を取り出しました。



 <第34話> 新しい仕事先
1991年12月上旬。カナダ最大のウインターリゾート・ウィスラー。冷たく光る凍った泥の道を、私は背中を丸めて歩いていました。手帳に書かれた住所は、ウィスラーリゾートの外れでした。その住所にたどり着くまで、随分歩いたと思いますが、その間にすれ違う人は誰もいなかったことで、気分は益々、沈んだのです。

ウィスラーは、日本からのスキーパッケージツアーが大挙して訪れていました。冬のカナダでは最大の集客力を誇る観光地でした。そうした日本人のツアー客をターゲットにした現地ツアー案内会社がウィスラーには数多く存在していました。私が訪れた所は、ゲレンデガイドを希望するツアー客を相手にしたスキーのアテンド専門会社でした。

バンクーバーを発つ前に、電話でアポを取った私は、条件が揃えば一冬をこのウィスラーで働いてみようと考えていました。探し続けた住所が見つかり、小さなドアをノックすると、中から体格の良い中年のカナダ人男性が顔を覗かせました。

「電話をくれたのは君か?」
体格の良いその男性は明るい笑顔で私を迎えてくれました。

「君、スキーはできるのかい?」
おそらくこれが面接だろうな、と察した私は、日本人的な遠慮や謙遜を全て省いて、雪国の生まれ育ちであること、3歳からスキーをはじめたこと、カナダに来る直前まで2シーズンに渡ってスキーインストラクターをしていたこと、などを矢継ぎ早に答えました。

体格の良いその男性の目は、上から下、また上へと私を観察し、
「日本人の割には、立派な体格だな。体力もありそうだ。」
と満足気でした。

私は手応えを感じていました。しかし体格の良いその男性は、急に険しい表情に変わりました。

「君のスキーの経験と実力は分かったが・・・  ただ、ご覧のように雪が無いから、年内の仕事のスケジュールは全く決まっていない。クリスマスの予約も全てキャンセルになってしまったしね。」

大きな溜息を吐きながら、体格の良いその男性は天井を見つめ、
「1月になったら、もう一度、ここに来ないか? その時にはきっと雪があると思うから、改めて話し合おう。」

採用保留という結果に、何とも言えない中途半端な思いに包まれ、私は再びウィスラービレッジの中心部へ、鈍い足取りで戻りました。

「仕方がない・・・ とにかくバンクーバーへ戻ろう。」
薄暗くなったビレッジは、相変わらず泥色で覆われていました。その色が、ウィスラーに対する私の興味を奪い去っていくようでした。




 <第35話> 大きな決断
1991年12月上旬。鉛色に覆われたウィスラーからバンクーバーに戻った私は、相変わらず鉛色の空を見つめていました。この時期のバンクーバーは毎日が小雨模様の曇天で、いつしか空が青かったことすら忘れさせてしまうかのように重い色をしていました。私は毎日、古ぼけた安っぽいコーヒーショップの一番奥の席に陣取り、ノートを広げ、電卓をたたいては、ノートにその数字を書き込んでいました。

カナダにワーキングホリデーとして入国し7ヶ月を過ぎていましたが、この間にそこそこのアルバイト収入があったため、カナダ行きのために日本で貯め込んだお金がそのまま残っていました。普通に生活するには十分すぎるほどの額が手元に残っていました。お金に対する安堵感はあったものの、私は少しも嬉しくありませんでした。

世の中には、自分の子どもに対して無駄遣いを誉める親はいませんが、私の両親は、私が子どものころから、お金を遣うことを教えてくれました。「何に遣ったか?」 ということに対して厳しく、自分のためだけに遣ったなどと知れると、烈火のごとく怒られたものです。それよりも、ケチケチと意味もなく小金を貯め込む素振りを見せると、いつも決まって、「そんな男じゃ大成出来ない!」 とがっかりされたものです。

親に怒られるのは我慢が出来ますが、親をがっかりさせるのは苦痛です。親が見たら、きっとがっかりするだろうな・・・私は今の自分が、決して理想的な居場所を得ているとは思えませんでした。

「じゃあ、どうする?」
「一体、どうしたいのか?」  そればかりを考えていました。
「今さら、暇つぶしでカナダで働いてみても意味が無さそうだ。」

その時、私は24歳でした。大学卒業後、アメリカに半年間、そしてカナダに来たまま、まともな社会経験もありませんでしたが、これ以上、行き場を失うことも無いだろう、という開き直りの気持ちでいました。再び、手元のノートに視線を移しました。その時の私の能力では、もはやそれ以上のことは、試算もできないまでに固まっていたのです。

「ようし・・・ これ以上、考えても仕方ない。このアイデアを事業化しよう!」
1991年12月。24歳の若さとバイタリティーだけしか無かった私は、将来の可能性だけを信じて、カナダで起業することを決意しました。これから大急ぎで準備に取りかかり、3ヶ月後の春からは業務が開始できるよう、その目標を定めたのです。




 <第36話> 会社設立
1991年12月中旬。私は5ヶ月ぶりにケロウナに戻ってきました。レンタカーでバンクーバーからケロウナまでの道中は、途中の峠で大雪に見舞われたものの、何とか無事にたどり着いたのでした。途中の雪道で往生したため、普通なら5時間で到着するケロウナに10時間近くかかったと思います。しかし、私はちっとも退屈ではありませんでした。車の中で、最終的な事業プランをまとめながら、いろいろと考えを巡らせることが楽しくて仕方ありませんでした。

ケロウナで日本食レストランを開業している日系三世カナダ人のビクターに再会しました。他の従業員も皆、笑顔で迎えてくれました。この何とも言えない安堵感。ケロウナの町全体が醸し出す優しい雰囲気。この町の魅力はガイドブックなどには書けないだろうな、私は改めてケロウナの素晴らしさを知ることになりました。

この夜、私はビクターに試行錯誤の末、温めていた事業計画を慎重に伝えました。彼は静かに聞いていましたが、やがて、「そこまで真剣に考えていたのか?」 と感慨深げでした。この時の私の事業プランとは、恵まれたゴルフ環境のケロウナで、ゴルフを中心とした滞在型のツアー事業でした。しかし、当時はまだ日本がバブル期(事実上の最終年)でしたから、私の試算は甘かったのだ、と今になってはそう思えるのですが、当時の私は日本の好調な経済が半永久的に続くという前提であったことは確かです。

今思えば、ぞっとしますが、その時の私は迷うことなくスタート台に登る瞬間を快感と思っていたことに違いありません。あの時、私はスタート台に立つ瞬間を味わっていましたが、あれは奈落の底に落ちる崖っぷちに足を踏み出した瞬間だったのかもしれません。翌日、私はビクターに連れられて、弁護士事務所を訪れました。カナダで事業をはじめるには、規模の大小に関わりなく、法的に会社を登記する必要があったからです。所定の用紙に、弁護士が慣れた手つきで記入していきます。指定された箇所に私とビクターが署名をして、これで弁護士事務所で行うべきことの全ては終了しました。

カナダはご存知のように広い大陸国家でありながら、人口は少なく、やっと3000万人を超えたところです。国の経済活動と雇用促進政策から、能力や財力に応じて、移民を受け入れている国です。従って、起業活動については比較的、緩やかな土壌であり、当時の私がカナダに会社を登記するために掛かった費用は、弁護士料と登記料を含めても、日本円で10万円足らずでした。

そして、私は届け出た会社の登記完了の結果を待つことになるのですが、何事もお役所仕事ですから、登記完了の知らせが来るのは年明けになるだろう、ということでした。




 <第37話> 6ヶ月分を現金で払う
1991年12月中旬。12月のケロウナの町は、クリスマスのイルミネーションが幻想的な世界を作り出していました。乾燥した気候のため、雪はほとんど降らず、粉雪が細かく舞うだけでしたので、期待していたカナダのホワイトクリスマスは味わえませんでした。

「なんだ、これじゃ長野の方がずっと雪が多いな・・・」
私は雪国の生まれ育ちなので、真っ白に覆われた雪景色を懐かしんでいたと思います。雪のないアスファルトは黒く光って、よけいに冷たそうな表情を見せていました。その冷たい表情のアスファルトの上を怖々と歩きながら、私とビクターは、ダウンタウンの貸しオフィスビルへ向かったのです。

「会社を設立した後、オフィスを借りて、そこを会社住所にしよう。」
ビクターの提案に私はすぐ反応しました。当時はインターネットの無い時代ですから、会社を立ち上げると、オフィスを用意し、電話、ファックスを設置するのが基本だったのです。向かった先の貸しオフィスビルは2階建てで、それぞれのフロアに、数多くの小部屋が並んでいました。一番大きな部屋で20畳ほど。一番小さい部屋で8畳ほどでした。広さによって家賃に違いがあるのです。

この手の貸しオフィスは近年、東京でも多くなってきました。受付サービスや、電話取り次ぎサービス、ファックス、コピー、飲み物サービスが付き、受付嬢は、まるで自分のスタッフのごとく、用事をこなしてくれるのです。一通りのサービス概要を聞き、私達は一番小さな部屋を借りることにしました。当時の1ヶ月の賃料が、約3万円ほどでした。月額3万円でこれだけのサービスを受けられるのか、と私は面食らいました。1ヶ月の賃料が10万円以下なら有り難い、というのが私の希望でしたので、提示された3万円という額は、まさに渡りに船だったのです。

「よし! 契約しよう!」
私は少しも躊躇せず、書類にサインをしたのです。カナダは、こうした賃貸物件に関しては、日本のような敷金や礼金はありません。身元保証金のような意味合いで、半月分の金額を預け入れることが条件です。私は半月分の1万5000円ほどを現金で支払いました。次は月額の賃料の支払いです。通常、このような場合は、個人小切手の先付け支払いとなります。つまり未来年月日を記入した各月分の金額の小切手を12ヶ月分として家主に先渡しするのです。

ここで問題が発生しました。まだ私の会社は正式に登記完了する前だったので、会社名義の口座が無く、従って振り出し用の小切手帳が無かったのです。
「現金で支払う意外ないな。」 私はそう判断しました。と言っても、こうした契約上、現金をそのまま受け取ることはありませんから、まずは現金を引き出した上で、最寄りの銀行で、銀行振出の小切手(バンクドラフト)を作ってもらいます。その小切手には、相手先の宛名が記載されていますので、第三者に悪用される恐れがありません。その小切手は、6ヶ月分の金額(約18万円)のものでした。私はこれを家主に渡し、残りの6ヶ月分は会社名義の口座が出来上がった後に支払うことにしたのです。これでオフィスも確保できました。電話はいつでも契約できます。空っぽのオフィスを見ながら、机やテーブルを揃えれば完成です。

「ここが自分たちのオフィスになるのか・・・」
バンクーバーでずっと思い悩んでいたことを吹っ切り、ケロウナへ来てからの数日間はあっという間の出来事でしたが、会社設立の準備、申請からオフィスの契約まで、とても充実した日々を私は楽しんでいたのです。



 <第38話> ビザをどうするのか?
1991年12月下旬。1991年が間もなく終わろうとしていました。会社の設立申請、事務所の契約、現時点でやれることの全てを済ませ、私は意味もなく満足した気分に浸っていました。しかし、すぐ次の課題が浮上してきました。それはビザの問題です。海外で暮らす、海外で仕事をする、勉強する等、要するに観光以外の目的で滞在するためには、しかるべきビザ(査証)が必要になります。

これは世界中、どこの国に行っても共通で、その国の事情によってビザの種類や取得の難易度に差があるとは言うものの、特に永住や就労のビザは発給が大変難しいのは周知の事実です。よく、「外国で働きたい」という声がありますが、働きたいという意思だけでは法的に認められません。私達日本人は、ひとたび外国へ出ると、外国人なのですから、しかるべき方法論でビザを取得しなければなりません。

これが実に大変で厄介なのです。いろいろな実状はありますが、極めて簡単に言いますと、例えば、私のような日本人(外国人)が、カナダの就労ビザを取得するためには、私がカナダ経済に具体的に貢献できる見込みを示さなければなりません。

具体的に貢献できるものとは、カナダ人の雇用であり、法人税や個人の所得税などによる納税です。そうした見込みを現実のものとするためには、合法的に私自身がカナダに居住し、しかるべき業務を遂行しなければならない、という前提が必要となるのです。

会社を設立した意味はそこにありました。私が代表者となった会社をカナダに設立し、しかるべき業務を実施することで、収益が上がり、従って雇用、納税による経済的な貢献に繋がります。それを実現するためには、私がどうしてもカナダに居住してカナダで自ら業務を指揮する必要があるから、ビザが必要だ、という順序でビザを申請すれば、おそらくビザが取れるはずだ、と考えました。と同時に、もしダメだったらどうするのか? ということも平行して考える必要があったのです。ダメだった場合の損失は、会社設立の費用やそれ意外に関わった時間やお金ですから、大したことはありません。命を取られるようなこともありませんし、その後の人生を大きく左右してしまうような金額でもありません。そう考えると、私は妙に気持ちが楽になってきました。

「ダメならダメでもいいじゃないか。」
考えた末に、何も手を打てないまま、時間だけが過ぎ、年齢ばかり重ねていった後に、「あのとき、やっていればなあ・・・」と後悔することだけは避けたかったのです。やるだけやってダメならしょうがない。私はほとんど開き直っていたと思います。というより、今さら後には引き返せなかったのです。

「よし! 帰国しよう!」
そうです、ビザを申請するのは、日本にあるカナダ大使館に行かなければならないのです。私はさっそく成田行きの往復航空券を購入しました。



 <第39話> 久しぶりの日本
1991年12月下旬。バンクーバーを飛び立った飛行機の狭いシートに私は一人で身を埋めていました。窓の外にバンクーバーの町並みが小さくなっていくことを最後まで確認していました。1年ちょっと前、私はバンクーバー空港内のアメリカ入国管理局でアメリカ入国拒否を受け、10年間のアメリカ入国禁止を告げられ、放心状態でバンクーバーから成田行きの飛行機に乗ったことを鮮明に思い出していました。

バンクーバーから成田に向かうという同じ行為でありながら、私の心の状態は天と地ほどの違いがありました。目標を失い、夢も希望も、ことごとく打ち砕かれたまま帰国した1990年10月の時の自分と、1991年12月の自分は全く別人でした。大げさな表現を用いるなら、地獄から這い上がって一筋の光明を見つけつつ、その光に向かって真っ直ぐに進んでいる自分を感じていました。

「アメリカが何だ! これからはカナダでやるんだ!」 私なりにアメリカへの決別を付けたかったのかもしれません。機内では眠ることも惜しみつつ、ノートに今後の予定を書き込んでいました。東京のカナダ大使館でビザを申請する手続きが一番の課題でした。そのビザは、就労ビザでしたから、ワーキングホリデーのビザを申請するような簡単なものではないことは充分に理解していました。私にとって重要な次のステージはカナダ大使館だったのです。

ほとんど定刻通りだったと思います。バンクーバーを飛び立った機体は滑るように成田の滑走路に着陸しました。心地よいランディングを全身で味わいながら、久しぶりの日本の空を小さな窓から眺めていました。外国から日本に戻ると、それが旅の終わりの瞬間になる人が多いはずでしょうが、私にとってこの時の帰国は新しいスタートを更に確実なものにするための出発地点を意味していたのです。

12月も終わりに近づく東京の町は、ざわめきと雑踏にまみれ、退屈な時間を忘れさせるかのような、そんな慌ただしさに包まれていました。暗く長い冬のカナダとは全くの別世界が目の前に広がっていました。日本での滞在は10日あまりの予定でした。遊んでいる暇はありません。この10日の間に私がしなければならないことが山積していたのです。




 <第40話> カナダ大使館へ
1991年12月末。師走の慌ただしさの中、私は人の流れの中を縫うように、そして益々、歩く速度を速めていました。東京・赤坂のカナダ大使館。ちょうどこの時、カナダ大使館は旧館の改築と新館の建設に伴い、ただでさえ分かりづらい出入り口が、まるで私の進入を阻んでいるかのようでした。

カナダ大使館査証部。各種ビザの申請を受け付ける窓口にたどり着いた私は、手書きの企画書を窓口の職員に見せ、早口で説明を続けました。ケロウナで会社を設立する準備に取りかかったこと、カナダ人との共同経営であること、カナダ人の雇用を見込んでいること、業務の内容と将来性、売上見込みとなる年間の金額等々を、力説しました。

窓口の職員の対応は私の想像していたものとは、180度違っていました。その職員は手元の内線電話で、この広いカナダ大使館のどこかへ電話をかけ始めました。受話器の向こう側の人物に、私の意向をそのまま伝えてくれたのです。正直言いまして、この時の私はうれしい誤算と驚きで、かなり気持ちが動揺してました。外国の滞在ビザで、しかも就労を含む目的の場合は、なかなか許可をされないのが定説です。しかし、目の前の窓口の職員は私に何の疑いの目も向けず、むしろ全く興味を持たないような顔つきで、極めて無機質に対応してくれたのです。

「ええ、はい。はい。そうですか。分かりました。」 受話器を戻すと同時に、窓口の職員は、私を真っすぐ見つめました。1秒にも満たない、その僅かな時間が、まるで判決を言い渡される直前のような、胃を強く握られているような、そんな感覚を私は得ていました。

「担当の者は現在、接客中です。午後2時からなら空いているので、その時間にもう一度、ここへ来てください。」 窓口の職員は感情の無い口調で、しかし一語一語はっきりと私にそう告げました。

「あ、え? はい! はいはい。分かりました。2時ですね! わかりました。2時にまた戻ってきます。あ、ありがとうございました。」私はぎこちなく一礼して、もと来た迷路のような仮設通路を青山通り方面に向かって歩き出しました。

「ということは係官に会えるんだな! ようし! それなら見込みがあるぞ!」私は久しぶりに気分が高揚していました。もしかしたら、窓口の職員の段階で軽くいなされ、断られてしまうかもしれない、という不安がずっと脳裏にあったためです。それが、全くの予想外とは言いながら、極めて簡単に前に進めたのですから、私は大きな手応えを感じていました。

私は朝一番で大使館に入りましたので、指定の2時までは4時間近くあります。地下鉄銀座線の赤坂駅方面に向い、地下のレストラン街をうろうろしながら指定された2時を待つことになりました。その間、係官から発せられるであろう私に対する質問を想定しながら、その回答集を紐解くように、頭の中で何度も何度も練習していたのです。
  
(注意)
移民法は毎年、改訂されています。基本的にはカナダへの移民、永住ビザ取得のハードルが年々高くなっており、お伝えしましたような個人事業による就労ビザ取得の場合も、現在では厳しい審査を経なければならず、1991年12月時点の私個人の体験は、現時点では全く参考になりません。




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