カナダ人が将来 住みたい憧れの町 ケロウナで・・・
疲れた心を癒しませんか・・・
これから先の人生に必要なヒントとエネルギーが必ず得られるはずです

  
  
  

滝澤のカナダ移住&起業への道のり

 <第41話> 約束の2時 係官との面接
1991年12月末。約束の2時少し前に、私は再び在日カナダ大使館に到着していました。午前中と同じ職員が受け付けカウンターで私を見ると機械的に電話をかけ、そして私を見つめながら、「*階の**室へ行ってください。」と告げてくれました。

エレベーターで指定の階へ、そして指定された部屋のドアをノックしました。40代半ばの日本人の男性係官が、にこやかに私を迎え入れてくれました。勧められるまま椅子に座り、いつしか私の正面には広い机を挟んで、40代半ばの日本人係官と、もう少し若いカナダ人係官が座っていました。
  
「お若いですねえ。おいくつですか?」
40代半ばの係官は私のパスポートをチェックしながら、問いただしてきました。

「に、に、24歳です。」 すでに私は緊張していたようです。
「それで、具体的にはどんなビジネスを始めるのですか?」
  
私は、今までイメージしてきた仕事の概要を、最初からこと細かく説明しました。自分が描いているカナダでの起業方法とビジネス内容を、この場で喋ることが、まるで何年も練習してきた成果を学芸会で発表できるかのような、そんな嬉しさに包まれていましたから、私の緊張は瞬時に解け、快調なペースで目の前の2人の係官を相手にまくしたてていました。

カナダ人の係官は、流暢な日本語で、「それは素晴らしいね!」と、随分と誉めてくださいました。40代半ばの係官も、私を見下すこともなく、極めて紳士的に対応してくれたのです。応接室とはいかないまでも、普段は部外者が立ち入ることができない大使館の奥の院らしい場所で、この2人の係官は、ジーパン姿の私を軽蔑することなく、最後までキチンと話を聞いてくれたのです。私の狙いは、ビザの発給を受けることでした。就労ビザの申請および発給が認められるかどうか、を確かめることが最大かつ重要な問題だったのです。

「良いでしょう! それで、今度はいつカナダに行くのですか?」
カナダ人の係官は、にこやかな笑顔を変えることなく、私を見つめました。

「え、あ、あの、年明けの1月にはカナダに戻ります・・・」
「そうですか。それでは、これが申請書ですから、記入をしたら、後日改めて大使館へ持参してください。郵送でもいいですけれど・・・」
「いえ! 直接お持ちします。年が明けたら、すぐお伺いしますので。」

私は2人の係官から名刺を頂きました。所定のビザ申請用紙に記入後、年が明けたら再びカナダ大使館に戻り、直接手渡そうと考えたのです。12月も終わろうとする時期。冷たい都会の風を浴びながら、私は意気揚々と地下鉄の駅に向かって歩いていました。スキップでもしたい気分でした。1時間ほどの係官との面接は、「合格」だったのです。

(注意)
移民法は毎年、改訂されています。基本的にはカナダへの移民、永住ビザ取得のハードルが年々高くなっており、お伝えしましたような個人事業による就労ビザ取得の場合も、現在では厳しい審査を経なければならず、1991年12月時点の私個人の体験は、現時点では全く参考になりません。




 <第42話> 両親へ報告する
1991年12月末。上野駅から長野に向かう特急列車に私は単身で乗り込んでいました。上野を出発したクリーム色に赤い帯の列車は大宮、高崎、軽井沢、と進みながら、懐かしい車窓の風景を私に見せてくれました。軽井沢はすでに雪景色に包まれていました。久しぶりの故郷です。実家のある更埴市(現・千曲市)に到着した頃には、あたりはすっかり暗闇に包まれていました。家にたどり着いた私を不思議そうな顔で二人の妹が迎えてくれました。やがて、父と母が戻り、私は早速、今までのカナダでの出来事や、これから自分が始めようとしているカナダでの商売の話を一気にまくしたてたのです。

「そうか! お前が決めたならやればいい!」 おそらく父からはそうした類の答えが返ってくるものだと私は信じていました。私の両親は、いわば放任主義で、私と二人の妹を育ててきました。いや、放任主義を家庭内教育としていた訳ではありません。要するに、子供になんか構っていられなかったのです。うか食われるか、のライバル店との激しい競争の中、店舗拡大と日々の営業で血眼になってしましたから、家のことはもっぱら祖母任せだったのです。

子供の頃の私から見た父のイメージは、「事業の鬼」そのものでした。ただ、お金に対しては欲がなかったと思います。個人の財産らしきものは全く無く、文字通り生命財産の全てを事業経営に注ぎ込んでいたと思います。私が小学校に入学し、毎年、進級するたびに、新しい店舗がどこかに必ず出来ていました。今でもはっきり覚えていますが、小学校1年の時にあの店ができて、2年生の時にはあの店ができて、3年生の時にはあの店ができて、というほど加速的な勢いでした。

「スポーツ用品店ごときが、そんなに儲かるはずがない!」と陰口を叩く人も多く、やっかみや妬みも相当なものがありました。

ある日、警察が家にやって来て、父を任意で連行して行きました。警察は誰かの密告で動いたらしいのですが、こんなに事業が急拡大する理由は、麻薬か人身売買でもやっているに違いない、と疑ったようです。もちろん、そんなことはありませんでしたので、過去の帳簿や融資先の銀行の証言等で、無罪放免となったのです。

全てを事業に費やしていましたから家庭は質素で地味そのものだったと思います。しかし、惨めさやひもじさはありませんでした。店の奥スペースに自宅らしき場所がありましたので、私と妹たちは子供の頃から店の活気の中にいましたから、父の勢いの中にまみれて生きていたのだと思います。

そんな父は、私が小学校1年生の時から、いつも決まってこう言いました。「お前には絶対に店は継がせない。長男が会社の跡取りとなれば潰れる。」小学校1年生当時から、いつも洗脳されるように、ずっと言われていました。父は、私に甘えを許さないぞ!という意味で言っていたのだろうと思いますが、子供心に私は深く傷つきました。やがて、「ようし!だったら見返してやるぞ」という思いに変わったのは、小学校6年当時だったと思います。考えてみれば、この時点で私の頭の中には、将来の職業としてサラリーマンや公務員というのは全く無く、「起業する!」という想いが備わったと思います。中学生になると、私の愛読書はもっぱら、「松下幸之助」や「堤義明」、「瀬島龍三」「本田宗一郎」等の日本を代表する実業家、起業家のものばかりでした。

大学に進むと更にエスカレートし、大学(体育学部の教職課程)の勉強は一切せず、私の机の上には経済や経営関連の書籍ばかりでした。野球部の寮にいた頃、同室の上級生が、「お前は経済大学の学生か?」と不思議そうに訊ねてきたこともありました。

そんな風変わりな私に対して、進学、就職などの重要な進路についても、父も母も強制的なことは何一つ言いませんでした。勉強しろ!などとは一度たりとも言われた記憶がありませんでしたし、信じられないかもしれませんが、通知票というのを見せたこともありません。きっと、そんな程度のことに構っていられないほど、両親の事業に対する責任が大きくなり、様々な制約や縛りの中で、もがいていたために、子供に接する時間が無かったのだと思います。

そんな幼少時期を過ごして来た私が、24歳になって、ようやく「起業する!」という一大決心を堂々と両親に伝えることができることになったのですから、「どうだ!凄いだろう!」という嬉々とした想いに私は包まれていたのです。自信たっぷりの私の話を聞いていた父の表情は変わりませんでした。そして、父が言った言葉は私の想像していたものと全く違うものでした。

「そうか。やるのか。それも良いな。でもな、その前に店に入ってくれないか?」

意外でした。小学校1年の時から、ずっと「お前には継がせない!」と言っていた父が、まるで別人のような言葉を発したからです。




 <第43話> 今はタイミングが悪い
1992年1月。東京株式市場は時ならぬ異変に包まれていたようです。もっとも、私にはその気配すら感じることができませんでしたが、父は見えない触覚を張り巡らしながら、敏感に何かを感じていたようでした。

「お前がカナダで起業するのは良いことだと思う。男なんだから、思い切って勝負してみたって良い。でもな、今はダメだ。タイミングが悪い。」

カナダで起業する決意をし、カナダに会社設立の手続きまで進め、帰国した直後には、カナダ大使館でビザ発給の申請も済ませていた私にとって、父の言葉は意外でした。

「タイミングが悪いって・・・  一体、何のタイミングなの?」 私には、父が何に恐れを抱いているのか、が全く理解できませんでした。

「日本は・・・ 日本はこれから景気が悪くなる。お前の考えている商売は日本人相手だろ。日本人はこれから、破産する人が増えるだろうし、倒産する会社も増えるだろう。失業者も増えるし、これから数年は何かを興すタイミングじゃないぞ。」 父の言葉は妙な説得力がありました。

元々、土建屋気質で、事業においても勝負師的な直感で、事業拡大を続けてきた父が、初めて不安に襲われていたように思います。後日、思い返すと、このときが、事実上のバブル崩壊の時だったのです。

「それよりもな、実は、このままじゃウチが潰れてしまうよ。だから、お前に店に入ってもらいたいんだ。どうだ?」

私は呆気にとられました。今まで父の事業の経営的なこと、特に財務的なことについては、全く知りませんでしたし、「失敗したら首をつる!」と、いつも言い放っていた父を見ていましたが、しかし、血気盛んに活き活きとした姿でしたから、まさか実家の商売が潰れるとは、考えたこともありませんでした。

間に母が割って入りました。「修の好きなようにやらせたら?」という母の言葉に対して、父は「ダメだ! このままじゃウチが潰れるぞ。そうなったら一家離散だ。」 これが零細企業の悲しい性です。倒産でもしようものなら、身ぐるみ剥がされて、再起不能なところまで落とされてしまう地獄があるのです。

私はカナダで独自に起業する夢を持ちつつも、しかし、実家の商売に対する愛着は相当なものがありました。育った環境がそのまま店の商売の中でしたから、その商売が無くなってしまうことは耐え難かったのです。この時、私は二者択一を迫られていたことになります。そして私は、一端、カナダでの起業を延期して、父の会社、つまり私を育ててくれた店に奉公する決意を固めたのです。

父はほっとした表情を浮かべつつ、しかし、嬉しそうな顔でした。反対に母の表情は優れませんでした。今、考えてみると、会社の経理、財務を取り仕切っていたのは母でしたから、この業界は衰退産業だということを読みとっていたのだろうと思います。そして、私は衰退産業へ向かうであろう、実家の商売の世界に入ることになったのです。




 <第44話> 長野から再びカナダへ
1992年1月下旬。成田空港を飛び立ったバンクーバー行きの飛行機の狭い座席の中で、私はこれから進む自分の人生を思い描いていました。つい、数ヶ月間までは、カナダで起業する!という夢を持ちつつ、その第一歩となるべき会社設立まで到達していたのですが、何だかその夢は、どこか遠くへ消え去ってしまったかのようでした。

飛行機は予定通りバンクーバー空港の滑走路に着陸しました。私は空港から、長距離バスのターミナルまで路線バスで移動し、午後発の長距離バスに乗り込み、ケロウナへ向かったのです。見慣れたバンクーバーの景色が車窓に広がります。1月のバンクーバーは、寒々とした空が広がり、瞬く間に空は黒い姿に変わっていきました。真っ暗な闇に包まれた時刻に、バスはケロウナに到着しました。約5時間の長いバスの旅は、遠く長野から24時間かけて、私を終着のケロウナまで運んでくれました。

ケロウナ市のダウンタウン。オカナガン湖の畔から1ブロック目に、ビクターニシが経営する日本食レストランが、いつもと変わらずに、営業時間を迎えていました。裏口から、厨房に入った私を、レストランのスタッフたちが笑顔で迎えてくれました。

「日本はどうだった?」
「ビザは取れそうかい?」

私が、ケロウナで会社を興し、独自の起業を進めることを彼らは既に知っていたのです。そして、誰しもが笑顔で応援してくれる雰囲気に満ちていたことを、今でもはっきりと覚えています。営業時間の最中でしたから、厨房に立ちつくす訳にもいかず、誰に言われるまでもなく、私は食洗器の前に立ち、山のように溜まった皿やコップを洗い始めました。午後10時。この日も盛況だったビクターニシのレストランは、ほどなく閉店時間を迎えました。厨房の最後の片づけ、清掃を終え、誰もいなくなったレストランの客席で、私はビクターと向かい合ったのです。

「ビザはどうなった?」
「うん、ビザは大丈夫だよ。」
「お父さんとお母さんは元気だった?」
「元気だったよ。」

何やら、様子がおかしいことに気が付いた彼は、不安そうに私を見つめ、「何かあったの?」 と慎重な言葉で質問を投げかけてきました。長野で、父に言われたことを説明し、私の決断としてカナダでの起業を一端、中止しなければならないことを伝えたのです。それが本当の話なのか、あるいは都合の良い作り話なのか、彼には判断する材料がありません。単に私を信じるか、信じられないか、ということです。

「何だ、調子の良いこと言って、結局できないんじゃないか。」
そう思われるのが、私は怖かったのです。もし、彼がそう感じたとしたら、そもそも私がワーキングホリデーとしてカナダにやって来たこと自体、何の意味も持たなかったことになってしまうからです。私は細かい部分まで、彼に説明を繰り返しました。黙って聞いていた彼は、やがて静かに口を開き、私に語り始めました。




 <第45話> いつかまた! 新たな約束
1992年1月下旬。ビクターのレストランは閉店後の誰もいない客席に私と彼だけを迎えてくれていたかのようでした。あれだけ血気盛んに「カナダで起業する!」と豪語し、事実、ケロウナに会社設立までこぎつけていたのですから、まんざら軽はずみな言動ではないことは彼も理解してくれていたようでした。

「そうか、お父さんの会社が大変なのか・・・」 ビクターは静かにつぶやきながら、腕組みをした体は暫くの間、動くことがありませんでした。

「何だ、結局できないじゃないか。意気地なしの日本人だなあ。」 そういう言葉が、いつ彼の口から出てくるのだろうか、私は戦々恐々としながら、動かなくなった彼を正面から見つめていました。

「でも、本当はやりたいんでしょ?」 ビクターの口から出てきた言葉は軟らかく私に投げかけられました。私は反射的に「もちろんです!」 と答え、しかし、自分だけではどうすることもできない状況に置かれていることを再度、彼に説明しました。

「一番大切なのは自分自身。でも同じくらいに大切なのは家族。その家族が君に助けを求めているのなら、君は助けてあげなければならないね。家族を助けることをせず、自分だけ成功したって、そんなのはダメ。」私は我に返りました。今の今まで、私は自分のことだけしか考えていなかったのです。全ての中心は自分自身であり、その自分を起点に全てのストーリーを組み立てていたのですが、彼は私の家族の立場に立って考えていたのです。

「今、君のお父さんが助けを求めているのなら、何も迷うことはないよ。一日でも早く長野に帰って、お父さんの手伝いをしてあげるといい。」 私はそう言ってくれた彼に対して、返す言葉がありませんでした。

「大丈夫。カナダで起業することなんか、いつだってできる!僕はずっとケロウナにいるし、君の帰りを待っているからね。安心して。」 ビクターは席を立つと、厨房の奥の倉庫から冷えたビールを2本持ってきました。おもむろに栓を開け、一本を私に差し出しました。嬉しいような、寂しいような、そんな乾杯のあと、私はビールを一気に飲み干したのです。「もう1本飲む?」 ビールには目がない彼は、再び新しいビールを持ってきました。この夜は何度、乾杯したことでしょう?

私は改めて考えました。長野に戻ると言っても、そのまま一生カナダに来られないわけじゃない。時期が来たら、タイミングが来たら、再びカナダに戻ってこよう! 私は新たな決意を腹に固め、ビールの酔いに加勢され、ビクターに新たな決意を伝えたのです。

「もちろん! いつでも戻っておいで! そして一緒にビジネスをやろう!」



 <第46話> 真冬のケロウナで考えたこと
1992年1月下旬。早朝のバスターミナルの待合室で、バンクーバー行きの高速バスを私は1人で待ち続けていました。真冬のカナダらしく、8時になるというのに外はまだ真っ暗でした。7ヶ月前に初めて訪れたケロウナは、私が思いもしなかった様々な出会いを与えてくれました。考えてみれば、ケロウナに滞在していたのは、わずか1ヶ月とちょっとだけだったにも関わらず、まるで10年間分の友人を一度に得たようなものでしたから、その1ヶ月と少しの時間の内容は濃密だったのです。

人生にこんな素晴らしい出会いの連続があるのだろうか?と私は改めて思い返しながら、私自身とケロウナの繋がりの奥深さを感じずにはいられませんでした。昨晩、ビクターと夜中まで語り合ったお互いの将来の夢や展望は、まるで映画かテレビドラマのように鮮烈なシナリオとして私の頭に刻まれたままでした。

できることなら、このままカナダに残って、ケロウナで独自のビジネスを展開させたい、と願う気持ちは一向に消える気配はありません。しかし、ビクターに言われた一言は、それ以上の力で、私を現実の世界に引き戻したのです。

「君の家族が、君に助けを求めている。君は家族のために力を貸してあげなければならないね。」

彼の口調は極めて穏やかで優しいものでしたが、言葉のひとつひとつは強烈な意味を持って、私の脳幹の奥に突き刺さるかのようでした。今までは、自分勝手に自分のためだけに突き進んできた私でした。しかし、それでは子供と同じです。例えは悪いかもしれませんが、デパートのオモチャ売り場で、「買って!買って!」と泣き叫ぶ子供と何ら変わらないのかもしれません。

私はカナダで興す自分の商売のスタイルや、夢を諦めたわけではありません。諦めるにはあまりにも勿体ないですし、後から後悔することは目に見えていました。しかし、今はそのタイミングではないことを私は前向きに理解をし、自分自身に強く納得させる作業を繰り返していました。

「一端、長野へ戻ろう。そして家業の手伝いをしよう。」
父が私に求めている努めを果たした後、新たな気持ちで堂々とカナダに戻ってくればいいじゃないか、私はそう決心したのです。バンクーバー行きの高速バスが出発のタイミングを計るかのように、室内灯が点灯され、私は大急ぎでバスに乗車をしたのです。

外はようやく白みかけた色合いを醸し出していました。人気もなく、車もまばらなケロウナの冬の朝。私は静かにケロウナを去り、帰国の途についたのです。ハイウェイ97号線を西に向かいます。バスはやがてオカナガン湖に架かる橋を慣れたように渡りはじめました。凛とした色合いに染まったオカナガン湖を眺めながら、私は真夏のオカナガン湖をきっとまた見たい、と素直にそう思ったのです。




 <第47話> 9年ぶりの故郷の生活
1992年2月上旬。私はケロウナの冬より寒い長野に戻りました。長野市の南に隣接した人口4万人の更埴市(現在の千曲市)が私の生まれ故郷です。千曲川が流れ、東西を山に囲まれた典型的な地方の町で、私は何の苦労もなく育ってきました。

私が最初の人生の転機を迎えたのは、高校進学の時でした。小学校から中学校まで、ずっと一緒だった友人たちは、当たり前のように地元の高校へ進学をしましたが、私はこの時から考え方が変わっていたようです。

スキーで国体を目指すか?
野球で甲子園を目指すか?

そのどちらに進路を定めるか?を考えた末、私は野球を選びました。長野県から甲子園を目指すとしたら、甲子園常連校という決まり文句が付く松商学園しかありませんでしたので、私は迷わず松商学園に進学しました。ところが松商学園は、長野県の地図で見ると中央部に位置する松本市に所在しています。私の地元の町とは、まるで地域が違います。その当時は高速道路も無かったため、長野市側から見る松本市側は、まるで県外のように見え、実際に松本市に行くよりも、新潟県に行く方が近い、という地理的な条件下でした。

従って私は高校3年間を松本市の野球部寮で過ごし、実家に帰省できたのはお盆と正月を併せた数日間だけでした。卒業後は野球推薦で大学進学したため、横浜市で4年間を過ごし、卒業後にアメリカ、カナダに合計2年ほどいましたから、住民票が生まれ育った地元の町に戻ったのは、実に9年ぶりでした。

親も姉妹も相変わらず元気でしたし、幼なじみの級友たちも変わりはありませんでした。懐かしい顔ぶれの中で、私は新しい生活をスタートすることになったのですが、でも何か引っかかるのです。居心地は良いし、全て勝手知った環境ですから、余計な心配事など一切無いような、そんな生活感を味わうことになってしまいました。

楽と言えば楽かもしれません。今までは、アメリカとカナダで右往左往しながらその場その場での判断や行動を興さなければなりませんでした。全てにおいて自分への責任が生じる場面が多々ありました。それらは、ひとつとして楽なことなど無かったのですが、しかし、ピンと張りつめた良い緊張感がありました。

その緊張感が無くなったような、何とも居心地の良い生まれ故郷での生活は何か釈然としない感覚を私に植え付けたようでした。でも、私はこの町で生きていかなければなりません。釈然としない居心地の良い何かを、都合の良い理由に置き換えて、再び外国へ戻っていくことなどできようはずもありません。私の新しい生活は、生まれ故郷の長野県の片田舎ではじまったのです。




 <第48話> 跡取り見習い
1992年2月上旬。真冬の長野ではじまった私の仕事はスキー用品の販売でした。その当時、私の父はスポーツ用品店3店、ゴルフ専門店1店、ゴルフ練習場5カ所、バッティングセンター2カ所、スポーツ施設設計施工などを業務とした会社を経営していました。

私が生まれる前年に、畳の広さで6畳ほどの狭く小さな店からスタートし加速度的な勢いで会社規模を大きくしていました。私にとっては、幼い頃からの家業であり、家族そのものであり、愛着の深い仕事だったのですが、すでにバブル景気は崩壊し、その暗雲は日本全国に広がりはじめていました。

父が私に会社に入るよう命じたのは、もはや適正なコントロールが出来ないまま、急降下を続ける経営内容に対して、打つ手が無かったためだったのです。全国展開をはじめた大型スポーツチェーン店が、市場を侵食し、価格競争が激しくなり、その悪条件は年を追うごとに悪い方向に転がっていったのです。

私は正直言って、まさか父の会社が、幼い頃からの家業が、ここまでひどい状態に置かれているとは思いもしませんでした。今考えれば、それだけ極楽トンボだったのだろうと思います。この最悪の経営状況を良くするには、とにかく販売に力を入れなければならないと考えた私は、店の中でも外でも、我を忘れて品物を売り続けました。ちょうど、季節が冬だったこともあり、得意のスキー用品でしたから、あらゆる方法を練っては、これらスキー用品を売り続けたのです。

ところが、スポーツ業界というのは、見かけは華やかですが、華やかなだけにロスも多く発生します。季節毎の商品アイテムが多すぎて、整理もつかないうちに、スキーの季節が終わり、慌ただしく商品を入れ替え、春物グッズを取りそろえなければなりません。売れ残った冬物商品は、そのまま倉庫にお蔵入りとなります。つまりレッドストック(赤字在庫)と化すわけです。私は全店の倉庫に眠っている赤字在庫を全部調べ上げました。上代(メーカー希望小売価格)換算で、1億円近くの在庫商品があったのです。仕入れ金額を単純計算すると、約5000万円近い金額まで積み重なっていました。

来年また売ればいいじゃないか、という訳にはいきません。スポーツ用品は流行りものですから、1年過ぎると、もはや半値以下の価値にしかなりません。スポーツ用品は、もはや肉や野菜と同じように、鮮度が命の商いなのです。通常の販売業務をこなしながら、私は売れ残り商品の山をどうやったら処分できるのか?を考えなければなりませんでした。しかも、毎年、各シーズン毎に新しい商品が入荷してきます。その中から新たに赤字在庫も生まれるわけですから、ぼやぼやしていると積み上がった山は小さくなることもなく、むしろ大きくなってしまいます。もう遊んでいる時間はありません。いつの間にか、毎日の仕事に忙殺されながら、カナダのことが頭から消えていくような感覚になっていたと思います。




 <第49話> 妹の言葉
1992年4月上旬。長野の実家に戻った私は、いつの間にか生活のサイクルもリズムも感覚も、すっかり日本に染まっていました。朝9時の始業開始から、夜8時9時まで、私はひたすら家業の仕事に集中しているうちに、カナダに対する想いや記憶が、少しづつ薄れていくことを実感していました。

「このままじゃダメだ・・・」 私は妙な焦りに包まれていました。日本に帰国し、家業の跡取り見習いとなり、毎日の仕事をこなしていること自体に不自然さは無かったものの、しかし、時間の経過と共にカナダとの距離感がどんどん遠くなっていくことに、ある種の恐怖を感じていたのです。

そんな折り、カナダから国際電話が掛かってきました。掛けてきた相手はケロウナのビクターでした。
「どう?元気でがんばっている?」 受話器の向こうから懐かしい声が聞こえてきました。短い挨拶の後、彼は私に「頼まれていた人が見つかったよ。」と申し出てきました。

「え! 見つかったの?」 私は彼に依頼したことを鮮明に思い出しました。ケロウナを離れ、日本に帰国する際、ワーキングホリデービザを取得して、日本に来たいカナダ人の男性を探して欲しい、とお願いしてあったのです。

私は暫くの間、日本で暮らさなければなりません。その間、英語の会話力を保つことと同時に、私がカナダでお世話になったお返しに、今度は日本でカナダ人のお世話をしたいと考えていたのです。
すっかり忘れていたお願い事が、突然、降って沸いたかのように現れたので、私は受話器を握りしめたまま、しばし呆然となっていました。

「インタビュー(面接)する?」 というビクターの言葉で我に返った私は、「インタビューは是非したいから、近い内にケロウナに行くよ。」と伝え、受話器を置きました。一応、カナダに短期間行く口実ができたのを良いことに、早速、私は仕事の整理をつけながら、ケロウナに行く日程を考えました。現地4泊が限度でしたから、かなりハードなスケジュールでしたが、しかし、私は久しぶりにカナダに行けることをに胸を躍らせていました。ところが、その話を聞きつけた妹が、何を血迷ったのか、
「お兄ちゃん、私も連れていって。」と言い出したのです。

私より1学年下の妹は、短大を卒業後、長野市内のトヨタ自動車の販売ディーラーに勤務していました。妹は車のセールスをしていましたが、性別や年齢に関係ない歩合制の厳しい世界の中で、女性営業マンとして入社以来、長野県のトップセールスを保っていました。また、全国の女性セールスマンの中では、常に5位以内に位置し、毎年のように愛知県のトヨタ本社に呼び出されては賞状を貰っていたほど、実績を上げていました。

並のサラリーマン以上の激務をこなしていたため、心身共に過労が絶えず、精神状態も決して良好とは言えなかったと思います。本人も自覚していたらしく、会社に対して一方的に長期休暇を申し出て、営業所長には、
「クビにするならクビにしても良い!」と啖呵をを切って、カナダに行くために勝手に休みをとってしまったのです。
私は良いような、悪いような、複雑な心境でしたが、考えてみれば今まで妹と長い時間を一緒に過ごしたり、ゆっくり話したこともありませんでしたから、ちょうど良い機会だなと思い、妹を連れてカナダに行くことにしたのです。




 <第50話> 面接のためにカナダに行く
1992年6月上旬。私と妹のカナダ珍道中は6月の初めでした。一年の中で、6月という季節がケロウナで最も素晴らしいことを知っていた私はためらうことなく6月の初めに日本を飛び出し、現地4泊だけの短いカナダ旅行を計画したのでした。

成田を飛び立った飛行機は、定刻通りバンクーバーに到着しました。バンクーバーからケロウナまでは、あえて国内線の飛行機を使わず、長距離バスを選びました。飛行機なら50分ですが、長距離バスですとケロウナ直行とは言うもののバンクーバーから5時間かかります。しかし、昨年まで合計すると結構な長期間を滞在していたバンクーバーにも愛着を感じていた私は、妹にバンクーバーを見せてあげたいと考え、少ないカナダ滞在日程の中で、到着初日の4時間だけの限られた時間をバンクーバーに居ようと決めていました。

ケロウナ行きのバスの出発まで4時間ありましたから、私は妹を連れ、バンクーバー空港からダウンタウンに移動しました。そこからシーバスという連絡船に乗り換え、湾の向こう側にあるノースバンクーバーへ渡りました。ノースバンクーバーは、バンクーバーのダウンタウンの北側に見える山裾に広がった町です。交通の便は良いとは言えないものの、大都会特有の喧噪が無く、海と山とバンクーバーの町並みが一望できる立地は私が最も気に入っていた場所でした。

私と妹の4時間という時間は、あっという間にタイムリミットを迎え、慌ててバスターミナルへ移動し、ケロウナ行きのバスに乗車しました。このバスに乗り、ケロウナまで5時間かかることを聞かされた妹は、瞬間的に疲れ切った顔つきに変わりましたが、元来、冷静な性格なので文句を言うこともなく、大人しく座席に座り、そのまま眠ってしまいました。

大学卒業後、フラフラとアメリカ、カナダを放浪していた私は、短大を卒業すると同時に激しい販売競争のまっただ中で毎月のノルマに追われて疲れきっていた妹に、「おい!寝るな!起きて景色を見ろよ!」とは言えませんでした。妹はそのままケロウナまでの道中、ずっと眠っていたように記憶しています。

数ヶ月ぶりに見る懐かしいケロウナの町灯りが、オカナガン湖畔に映し出されたころ、時刻は夜の8時を廻っていました。耐えきれず、私が妹を揺さぶり起こし、ケロウナの町並みをバスの車窓からしっかり見るよう促しました。

「ここがケロウナ? ふ〜ん、小さくてキレイな町だねえ。」 目が覚めたばかりの妹の目には、ケロウナの第一印象はとても良いものとして写ったようです。バスはオカナガン湖に架かる橋を真っ直ぐに渡りました。まもなくケロウナのバスターミナルに到着しました。




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