カナダ人が将来 住みたい憧れの町 ケロウナで・・・
疲れた心を癒しませんか・・・
これから先の人生に必要なヒントとエネルギーが必ず得られるはずです

  
  
  

滝澤のカナダ移住&起業への道のり

 <第61話> 中学のバスケットボール部
1992年11月下旬。アンドリューの存在は、噂話として地域に広がっていきました。ある日、地域の中学校の先生が来店されました。一度、学校に来て欲しい、というのです。

アンドリューの得意とするスポーツはバスケットボールでした。190cmのスラリとした細身の体系は、まさにバスケットボール選手そのものだったのです。それを聞きつけた中学校の先生は、中学のバスケットボール部の練習に顔を出してくれないか?というのでした。長野の田舎の中学生たちが、背の高い白人青年と一緒にバスケットボールをすることができれば、相当な刺激になるだろうから、という理由でした。そしてアンドリューはこれを快諾したのです。

かくして、一人のカナダ人青年が、中学校のバスケットボール部の練習に参加するようになったのです。部活が始まる時間帯に、私はアンドリューを中学校の体育館に連れて行きました。私が運転する営業用の小さな軽トラックの助手席から、体を折り曲げるようにして、彼が這い出て来た瞬間、中学生たちの威勢の良い黄色い歓声に包まれました。

「うわ!でけー!」
「ほんとに外人だ!」
「すげー!英語しゃべるんかな?」

体育館に入るやいなや、彼の回りに中学生たちが集まってきました。お世辞にも上手とは言えないアンドリューのバスケットボールの動作にも、中学生たちは、目を大きく見開きながら見つめていました。中学生たちのカタコトの英語と、アンドリューのカタコトの日本語が、妙な親しみを湧きおこしているかのようで、何とも言えない平和な時間が流れていったのです。

この後、他の中学校にも噂が広がり、複数の中学のバスケットボール部から誘いを受けるようになっていったアンドリューは、来日してまだ1ヶ月も経たないうちに、すっかり地域に溶け込み、彼自身も多忙なスケジュールをこなすようになっていったのです。




 <第62話> スノーボードに挑戦!
1992年12月中旬。スキーシーズンに突入しました。ちょうど、この頃から、スノーボードが新種のウィンタースポーツとして注目されはじめました。私とアンドリューの仕事場である店も、中心商品がスキー用品に切り替わり、にわかにウィンターシーズンに突入し、忙しくなりはじめました。

「アンドリューはスキーやるの?」
店の従業員やなじみのお客さんたちは、カナダ人であるアンドリューは、相当なスキーテクニックを持っていると思い込んでいたようです。しかし、アンドリューはほとんどスキーをしたことがありませんでした。

「ボク、スノーボードをやりたいでーす!」 
そう言うと、その場でダイナミックなボード滑走をイメージしながら、両手を一杯に広げながら、両膝を折り、絶妙なタイミングに酔いしれるのでした。その話を聞いたスノーボードメーカーの営業マンが、
「滝沢さん、せっかくだから、彼にモニターになってもらいましょうよ!」
と提案してきました。つまり、メーカーからボード一式をタダでもらえることになってしまったのです。何という幸運なカナダ人青年でしょう。

「ホントですか? アリガトございます!」
190cmの長身を90度に折り曲げながら、ペコリと頭を下げる律儀さをメーカーの営業マンは、とても気に入ってくれたのでした。ほどなくして、彼のスノーボード、ブーツが届きました。私は子供のように大はしゃぎの彼を、さっそく近場のスキー場に連れて行くことにしました。

この当時、ただでさえスノーボードが珍しい時代であり、なおかつ長身の白人青年が長野のスキー場でスノーボードをするのですから、否応なしに目立ったものです。私は、店の店名が大きく背中に入った特注のボードウエアを彼に着させて、スキー場で宣伝活動をしていました。子供から大人まで、彼の姿に魅了? されて、どんどん近づいてきます。

私が想像していた以上に、彼がもたらしてくれた宣伝活動は、大きな威力があったのです。そして、彼もそれが役に立っていることを実感したかのように、出会う人たちに名刺を差し出しているのでした。




 <第63話> 来日初!酔っぱらって大暴れ!
1992年12月下旬。好奇心旺盛なアンドリュー青年は、長野での生活に慣れてくると、行動範囲をどんどん広げていきました。ある日、彼は夕方に家を出て最寄り駅から電車に乗り、長野駅に向かいました。長野で一番の繁華街がある長野駅周辺に行ってみたいという理由でした。私は同行できなかったため、彼は意気揚々と一人で出かけて行ったのです。

ビールが大好きな彼は、長野駅周辺の居酒屋でビールを飲みながら、きっといろいろな人たちに出会って、かたことの日本語を駆使しながら、たくさんの知り合いを作っていくのだろうな、と私は勝手に想像していました。夜10時を過ぎても彼は帰宅しませんでした。夜11時を回り、長野駅からの最終電車の時刻まで30分を切っていました。

「おかしいな、何かあったのかな?」 私も両親も妹たちも急に心配になり、最終列車が到着する時刻に最寄り駅に迎えに行ったのですが、彼の姿はありませんでした。
「事故に巻き込まれていなければいいけれど・・・」
夜12時を過ぎたころ、今まで眠っていたかのような電話機が音をたてました。
「あ! きっとアンドリューだ!」 私は受話器を取りました。

受話器の向こうから聞こえてきた声の持ち主は彼ではありませんでした。
「こちら、長野駅前派出所の■■と申します。お宅に外国人の若者がホームステイしているそうですが、間違いありませんか?」声の主は派出所の警察官だったのです。

「え? は、はい。間違いありません。どうかしたのでしょうか?」
警察官の話によると、アンドリューは相当に酔っていたため、タクシーに乗車拒否され、大声で怒りをぶちまけていたそうです。ろれつの回らない早口の英語で怒鳴り続けていたところを、警官に身柄を拘束され、交番に連れて行かれたということでした。私は、ことの次第を警察官に説明し、間違いなくこちらで責任を持って保護するので、タクシーに乗せて欲しいとお願いしました。親切な警察官は、「わかりました。それでは、タクシーの運転手さんに事情を説明して、この彼を乗車させます。ご心配なく。」

深夜の国道18号線を通って、長野駅前から私の家まで30分くらいの距離です。到着するであろう時間を見計らって、玄関前で私はタクシーを待っていました。やがてタクシーが到着すると、彼がフラフラと後部座席から出てきました。

「俺は悪くない! 行っちまった最終電車が悪い!」
「俺は悪くない! 俺を乗せないタクシーが悪い!」
「俺は何も悪いことをしていないのに、警察が俺を捕まえやがった!」

聞き取れないほど早口で、下品な言葉を交えながら、路上で彼は騒ぎ立てました。一通り怒鳴って、気が晴れたのか、今度は12月の真夜中の寒さに震えだし、その場にしゃがみこんでしまいました。

「何やってんだ? しっかりしろ!」 と私は彼の背中を叩くと、その場で嘔吐を繰り返し、しばらくすると嘔吐と寒さのせいで酔いが冷めたのか、半ベソ状態で 「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」 と泣きだしました。最初、私は彼をきつく叱らなければ、と思っていました。しかし、嘔吐して、泣き出した彼を見たとき、毎日を楽しそうに過ごしていながらも、きっと心のどこかで慣れない外国の地で過ごす寂しさや辛さがあったんだろうと思いました。事実、彼は来日以来、英語で話ができる外国人とは全く接しておらず、日本人だけと接していましたから、表面的には楽しそうでも、ストレスもあったはずです。

それが、お酒が入って、ハメをはずしただけなのだと思いました。私も彼と同じ歳のころは、お酒を飲んでバカ騒ぎしていたことも数多く、彼の場合は、たまたま騒いだ場所が外国だった、ということなのです。そう思うと、彼を叱る立場じゃないと思い、そのまま彼の肩を抱いて家に運び込んだのでした。




 <第64話> 早起き野球デビュー
1993年4月上旬。年が明け春になると、信州の長かった冬から解放されるかのように、様々なイベントが盛んになります。その代表的なものの一つが「早起き野球」でした。地域のチームは数多く、市民レベルで早朝から草野球に興じる風景が毎日のように繰り広げられます。私が働いていた実家のスポーツ用品店にも、言うに及ばず早起き野球チームがあり、店のスタッフや地域のお客さんたちでチームを作っていました。

アンドリュー青年は、大の野球ファンでした。前年にトロント・ブルージェイズがワールドシリーズで優勝した時は、大はしゃぎで喜んでいたほど、大の野球好きだったのです。そうなると、自然な流れで彼もチームの一員に加わったのです。何しろ身長195cmで、すらりとした細身の体型ですから、ユニフォームが小さいくらいで、子供のユニフォームを大人が着ているような感じでした。しかし、彼の存在は長野の田舎の相手チームには、強烈な印象を与えたのです。

「おい、見ろ! 外国人選手がいるぞ!」
初めて対戦する相手チームは、こぞってアンドリューの存在に目を奪われ、試合開始の整列とあいさつの時は、全員の目が彼に注がれていました。長身、金髪、青い目の外国人選手が、「ヨロシクオネガイシマース」 と言っただけで、相手チームは相当に警戒感を強めたことは間違いありませんでした。

しかし、アンドリューは野球経験がなく、実践的な選手ではなかったのです。それでも、我がチームの監督が、毎試合かならず代打で起用してくれたのです。誰のマネをしているのか?おそらくブルージェイズの選手の誰かなのでしょうけれど、バッターボックスに入るときに、決まった動作をゆっくりと繰り返しながら、そしていつも決まって三振でした。文字通り、必ず3回振っての三振でした。

彼はいつも悔しがっていましたが、こうした試合が毎週2試合ほど続けられるうちに、彼の存在は地域の人たちにどんどん知られるようになっていったのです。隣りの長野市の早起き野球チームの監督が、アンドリューをスカウトしてきましたので、結局、彼は日本に滞在中、2つの早起き野球チームに所属し、長野の早起き野球チームの人たちと、さらなる交友を深めていったのです。




 <第65話> 国道18号線で有名だった自転車のカナダ人
1993年5月。新緑の季節を迎えたころ、彼は1台の自転車を手に入れました。欧米の人は自転車好きと言われますが、カナダ人のアンドリュー青年も自転車が大好きでした。マウンテンバイクに長い両脚をまたぎ、颯爽と走る姿は行き交う人の注目を集めました。好奇心旺盛な彼は、片道20km程度の距離感はもろともせず、何度もパンクを経験しながらも、国道18号線を我が道のように快走していたのです。

このころになると、所属していた早起き野球チームの仲間や、中学校のバスケットボール部員、先生方や父兄の方々など、地域にたくさんの友人や顔なじみができていましたから、国道を自転車で走る彼に、多くの人たちが声をかける姿が普通の風景になっていたのです。

マウンテンバイクとはいえ、市販品の自転車ですから、彼の走行距離とタフな運転さばきに耐えられないかのように、何度もパンクをし、チェーンもはずれたそうです。手先が不器用な彼が、国道の脇で右往左往していると、

「おい、アンドリュー、どうしたんだ? パンクか?」
「とりあえず家まで乗せていってやるから、自転車はこの車の荷台に乗せな!」

という具合に、地域の人たちが誰かどうか声をかけては、彼のピンチを救ってくださっていました。国際交流とか、異文化交流などという大げさなタイトルはありませんが、普通のカナダの若者と、普通の日本の人たちが、普段の生活の中で自然にふれあい、仲良くなり、お互いに助け合ったり、お酒を飲んだり、楽しんだり・・・  そうしたことが極めてスムーズにできていたのです。誰も英語に流暢な人はいませんでした。アンドリューとてカタコトの日本語でしたから、両者はいつも身振り手振りで意思を交わしていたのです。

わずか1年という短い期間でしたが、一人のカナダ人青年が長野の田舎に登場してから、数え切れない地域の人たちが、手振り身振りで国際交流をしていたことを思うと、彼の存在がいかに大きかったか?今さらながら痛感できるのです。

カナダ人の青年が長野にやって来て、自転車で毎日のように国道18号線を走っていた。たったそれだけのことが、予想もしなかったような大きな交流を育むようになろうとうは、私は全く想像していませんでした。




 <第66話> 甲子園出場に感激の涙
1993年7月。各地で甲子園の予選が火蓋を切る季節になりました。日本の高校野球が国民的行事であることや、地域を挙げての盛り上がりの様子をアンドリュー青年は肌身で感じていました。大の野球好きの彼が、これに興味を示さぬはずはありません。都道府県代表が集う夏の甲子園大会を生で観てみたいと彼は願っていました。

「甲子園に高校野球を観に行きたいデース!」
甲子園まで自転車で行くつもりなのか? 隣町へ日帰りで行ける程度の距離感だと思っていたのでしょうが、長野から甲子園のある西宮までの具体的な距離を知ると、一様にがっかりした様子になってしまいました。

「もし僕の母校が甲子園に出ることになったら、一緒に応援に行こう!」
私は彼にそう提案しました。彼の目はにわかに明るくなり、
「母校は強いの?甲子園に出られそうなの?」 と食いついてきました。
「たぶん、今年も出ると思うよ。」 私は答えました。

母校は甲子園常連校で、今年は3年連続の夏の甲子園を目指していました。その2年前のセンバツでは準優勝をしていましたし、甲子園慣れした選手が今年も残っていましたから、可能性は高かったわけです。しかし、一発勝負の高校野球は何が起こるか分かりません。もし、長野県大会で優勝できなかったら、彼がどれほどガッカリするだろうか?そう思うと、いつもの年以上に私は緊張しながら予選を迎えたのです。

母校は順調に勝ち進みました。プロ注目の選手が期待通りの活躍を見せ、危なげない試合を続けていました。アンドリューは球場に足を運ぶごとに高校野球特有の応援の響きに酔いしれ、完全に母校のファンになっていました。そして迎えた決勝戦。この日も投打に圧倒した母校が終始試合をリードし、3年連続の甲子園出場を決めました。松商学園の応援スタンドで観戦していた私とアンドリューの周りには、感激の涙を流す関係者の姿で一杯でした。「ヤッター! これで甲子園に行けるぞ!」 横にいる彼を見ると、感激のあまり彼も涙していました。カナダ人青年も高校野球の感動を覚えたようです。



 <第67話> カナダ人いざ甲子園へ!
1993年8月。母校の甲子園出場が決まり、ほどなくして一回戦の対戦相手も決まりました。私は甲子園に毎年観戦に行っている友人に連絡を取りました。友人はいつも車で甲子園に行っているので、私とアンドリュー青年は、一緒に乗せていってもらうことになったのです。

「それで、何時に出発するの?」 私は友人に出発時間をたずねました。
「そうだな、夜12時に出発しよう!」 彼は平然と答えました。
「??? 夜12時? 早すぎないか?」 私は彼の意図がわかりませんでした。
母校の試合は第三試合です。昼12時30分の開始予定です。

「遅くても朝6時に並ばなければバックネット裏の席を取れないからな。」
なるほど、合点がいきました。彼はバックネット裏の前列で試合を見るつもりだったのです。ちなみに彼も私と同じ高校の野球部で、私と同期でした。私にとっても彼にとっても、母校の3年連続の甲子園ですから、朝6時前に並ぶことなど全く意に介していませんでした。

友人と、彼のお父さん、私、アンドリュー青年の4人を乗せた車は、闇夜の中央高速道路を一路甲子園に向かって疾走しました。甲子園球場の姿が、まだ薄暗い風景の中に浮かび上がってきました。そして私たちは開門前の球場入り口付近に座り込んだのです。時刻は朝5時前だったと思います。しかし、すでに数十人の高校野球ファンがあたりを埋め尽くしていたのです。

「試合は何時からですか?」 アンドリュー青年の質問に、第三試合であることと一応の予定は午後12時30分であることを伝えると、彼は目を丸くしながら驚き、そして、ぐったりと疲れた表情になってしまいました。かく言う私も同様でした。
  
やがて開門になり、私たちはバックネット裏の最前列の後ろ、つまり第二列目の席を確保することが出来たのです。目の前に広がる甲子園のグランド。垂直に聳えるような外野スタンドと、立体的に浮かび上がるようなスコアボード。

「すごい・・・ これ、KOSHIENですね・・・」 アンドリュー青年も夢に見た甲子園にとうとうたどり着いたのです。長野県大会から応援を続けること早1ヶ月。彼にとっても、きっと長く険しい道のりだったに違いありません。




 <第68話> マスコミからの取材攻勢
1993年8月。阪神甲子園球場。第一試合、第二試合、ともに白熱した試合が続いていました。アンドリュー青年の度肝を抜いたのは、神奈川県代表・横浜商大高のアルプスの応援のボルテージでした。激戦区神奈川を勝ち抜いただけあり、ブラスバンドやチアガールの応援レベルは、大学野球や社会人野球と遜色ありませんでした。

「こ、こ、これがハイスクールの野球ですか? すごすぎる・・・」
  
私たちは開門と同時に、狭い観戦席に座り続けていました。トイレ、飲食のために、何度か席を離れる回数が増えていました。 「トイレに行って来ます」 そう言って、席を立ったアンドリューがなかなか戻って来ないことに気が付いた私は、どこかで迷子になったのかな?と心配になり彼を捜し始めたのです。ほどなくして、彼の姿を見つけました。そこは、バックネット裏の通路付近でした。試合が終わった両校がマスコミのインタビューを受ける場所なので、大勢のマスコミ陣が待機する場所だったのです。

195cmの長身のアンドリューの周りに大勢の人だかりがありました。テレビカメラやマイクが複数見え隠れしていました。私は長野県大会から、いつもアンドリューにユニフォームを着せていました。私が現役時代に着ていた公式試合用のユニフォームです。背の高い金髪の外国人が、胸に「MATSUSHO」と刺繍されたユニフォームを着てウロウロしているのですから、目立たないはずがありません。
  
「MATSUSHO 強いデース! 勝ちマース!」 
マスコミを相手に彼はカタコトの日本語でインタビューに答え続けていました。これらのインタビューは、スポーツ新聞に掲載されたり、テレビでも放映されたほどで、彼は思わぬところで時の人となったのです。

カナダ広しといえども、夏の甲子園でマスコミからインタビューされたカナダ人はおそらく未だにアンドリューだけだろうと思います。




 <第69話> 激闘の末に
1993年8月。阪神甲子園球場。いよいよ待ちに待った第三試合です。相手は、平成になってから全国区で名を高めてきた長崎日大でした。対する我が母校は、3年連続29回目の夏の甲子園でした。新聞は新興勢力VS古豪の対決という見出しをつけ、プロ注目の長崎日大・中村投手と、同じくプロ注目の松商学園・辻の対決に注目をしていました。

試合開始のサイレンが、熱い夏の空にこだまし、両校アルプス席の熱気はあっという間に頂点に達するかのように熱を帯びてきました。バックネット裏の狭い座席にかがむようにしながら、私とアンドリューは息つく間も無い試合展開を、息を呑むように見つめていました。引き締まった投手戦は、試合展開が早く、中盤を終えたところで、長崎日大が2−0でリードを守ったまま、試合は終盤に流れていったのです。

長崎日大・中村投手は、リズムの良い素晴らしいピッチングで、崩れる気配が見られません。
「このまま、負けてしまうかな・・・」 私もアンドリューもいつの間にか無言でした。

9回の松商学園の攻撃。ここまで完全に抑えられていたのですが、あれよあれよと満塁になり、四番の辻を迎えました。辻君は不思議な魅力を持った選手でした。その不思議なオーラは、アンドリューも感じていたようでした。私たちは両手の拳を握りしめ、次の展開を見守ったのです。鋭く振り抜かれたバットが、かん高い金属音を発し、ボールは最速でライト方向に直線を描きました。

「いった! 逆転満塁ホームランだ!」 完璧な当たりでしたが、高さが足りませんでした。肉眼でみても、ほんの数センチ低かったために、ライトフェンスに直撃し、2者を返すツーベースヒットになったのです。

「同点」 
  
試合は緊迫したまま延長戦に突入しました。私もアンドリューも、お互いに一言も発せられないまま、その先の結末を見続けていたのでした。

「延長12回」

とうとう試合が終わりました。 長崎日大 3−2 松商学園。泣き崩れる選手達の姿を見つめながら、これが日本の高校野球、これが日本の夏の風物詩であることを、アンドリューは強く印象付けられたのでした。カナダには無い独特の日本らしさを味わったことは、彼にとってきっと一生の思い出になったはずでしょう。




 <第70話> 早かった1年 あっという間の長野
1993年10月。カナダから長野にやって来た細身で長身のアンドリュー君。日本の田舎独特の習慣が色濃く残る長野で過ごした1年も過ぎてみればあっけないほど早いものです。
この1年間、彼は「長野の日本語」の中で、どっぷり暮らしていました。日本語も相当に流暢になりましたが、私が驚いたのは彼のコミュニケーション能力の高さでした。

恥ずかしがらない堂々とした態度や、分からないことや納得できないことに対しては、きちんと主張し筋を通す姿勢は、どことなく曖昧にしてしまいがちな、私たち日本人が見習うべき点が多かったと思います。

そんなアンドリューを、快く迎えてくれた地元の早起き野球チームの人たちが、「アンドリューさよなら試合」を開催してくれました。
地域で働く30代前半の有志が集うチーム同士の対戦を設定してくれ、この日の主役はアンドリューでした。投げて打って、その後のバーベキューパーティーに至るまで、彼は地域の人たちと深い交流を楽しんだのでした。

思えば、片言の日本語しか分からないまま、初めて訪れた日本という外国の地で、わずか1年の間に、ここまで地域と同化してしまうというのは凄いことだと思います。私とて、カナダに1年ほどいたものの、地域に溶け込めたのか?と自問すると、とても恥ずかしくて彼と比較できるようなものではありませんでした。
異文化コミュニケーションの能力というのは、とても大事ですが、私たち日本人は妙にまじめすぎるあまり、それを実践するためには、「英会話力を高めること」 だと信じて疑わない特徴があると思います。

実際に外国で暮らす中で、会話力が高いからと言って、必ずしもコミュニケーション能力が高いとはいえません。すべてはパーソナリティー能力がもたらす人間同士の理解力なのだと思います。私はもちろんのこと、私の家族も、地域の人たちも、アンドリューから受けた刺激や学ぶべき点はたくさんあったのでした。

1年間の思い出と、たくさんのお土産を抱えながら、秋の深まる季節に、彼は日本を飛び立ち、カナダへ戻ったのでした。成田空港のゲートで、私とアンドリューは固い握手を交わしたのでした。




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