カナダ人が将来 住みたい憧れの町 ケロウナで・・・
疲れた心を癒しませんか・・・
これから先の人生に必要なヒントとエネルギーが必ず得られるはずです

  
  
  

滝澤のカナダ移住&起業への道のり

 <第71話> 世の中の激変
1994年1月。バブル崩壊という言葉は、この頃になると珍しいものではなくなり、その言葉すら、飽きられたかのような感がありました。しかし、世の中の実態は確実に「崩壊」を感じさせる現象が各地で起こり始めていたのです。

一時的な不景気など、すぐに脱却できるだろうと、誰しもが安易に考えていたはずが、このころになると、「これは今までとは事情が違うぞ」と先行きの不安を提言する識者がメディアを通して悲観な意見を述べるようになってきたのです。私は相変わらず稼業の仕事に取り組んでいました。小売業ですから、定休日などありませんし、日曜祝祭日も関係なく、文字通り日夜の営業活動に没頭していました。

世の中の暗い意見に対しては、ひたすらに「がんばれば必ず報われる」とか、「一生懸命働けば何とかなる」というような、いわば精神論を自らに振りかざしていました。このとき、私は26歳でしたから、たいていのことは体力でカバーできると思っていました。

世の中に不景気風が強まり、日に日に品物が売れなくなる中で、しかし、私はそれをカバーするための体力勝負に挑んでいました。店の営業は夜8時に終了します。閉店後、私は商品を車に押し込み、夜の高速道路で松本市方面に向かいました。同じ長野県でも、松本市は通常の営業エリアではなかったのですが、高校の3年間を松本市で過ごしていた私には、多くの友人が松本界隈にいたのです。

友人らのツテをたどって、時には夜のスナックや飲食店で、時には友人の勤める会社の会議室や、労働組合の事務所で、文字通りの行商を続けていました。ある程度の割引きは覚悟の上でしたが、その代わり現金払いのみで対応しました。田舎特有の暖かさや人情に後押しされながら、「次はいつ来るの?」、「今度はもう少し大きめのサイズを持ってきて」と声を掛けていただきながら、気がつけば、こうした夜の行商は週に4〜5日に及んでいました。

「やればできるじゃないか!」
「体を動かせば結果がでるんだ!」

と、勝手に自己満足しながら、深夜の高速道路を運転しながら帰路につき、家に戻るのは決まって夜中の2時3時という状態でした。翌朝、出勤した私は、売れ残った商品を元の場所に戻し、売上の現金をレジに入れます。 「おいおい、一体どこで売ってきたの?」 と、職場の従業員にたびたび聞かれました。私にとっては稼業ですから、残業代も無い、深夜の行商に向かうガソリン代も個人負担、何かメリットがあるわけではなく、ただ単純に店の存続維持だけを考えていた日々でした。

「がんばれば必ず報われる」
ただ、その一言だけが、そのときの私を支えていたのだと思います。




 <第72話> 同業者の倒産
1997年9月。いつの間にか、出口の全く見えない真っ暗なトンネルに入り込んでしまったかのような、冷たい感覚に私は侵されていました。日本経済の地盤沈下を、政府もメディアも認めざるを得ませんでした。追い討ちをかけたのは、上場企業の相次ぐ倒産の連鎖と、誰もが潰れるはずがないと信じていた、都市銀行と大手証券会社の倒産というショッキングな事実でした。

この頃になると、地方の零細企業の倒産など、もはやニュースにすらならないほど、「企業倒産」という言葉に、誰もが麻痺していたのかもしれません。私も、「北海道拓殖銀行」、「山一證券」の倒産と言われても、「これは大変なことだ」と思うのですが、肌に突き刺さるような実感として受け止めることができませんでした。何か遠い、テレビの中の出来事かのように感じていたのかもしれません。

世間も同じでした。「大変だ!大変だ!」と神妙な顔つきになるものの、しかし、どこか対岸の火事を見ているような肌感覚があったと思います。
私が従事していた業界では、大手チェーン店の出店ラッシュの影響を受け、各地の小売店が苦戦を強いられていました。物量と低価格で顧客を獲得していく大型店に対して、我々のような地域の小売店は、「地域密着」という旗印のもと、全国各地で大型店との熾烈な競争を続けていました。

しかし、地域既存店の劣勢は必至で、数年前から各地の小売店からの悲鳴が聞こえ始めていました。そんな中、北陸地方を地盤とする有力小売店の存在が業界でクローズアップされていました。専門性の高い競技系スポーツから、ファッション性が高くなるスポーツウエアまで、全ての分野において、絶大なる営業実績を築いていたお店でした。全国各地から同業者が見学や視察に訪れ、私も1度だけメーカーの紹介を得て視察に行ったことがありました。

大型店に負けないほどの売り場面積と店舗数、専門性の高いスタッフを配置し、品揃えは完璧でした。私が一番驚いたのは、ディスプレイ能力の高さでした。これには東京の有名デパートのノウハウを取り入れている、ということでしたから、ここまでやらなければダメなのか・・・ という思いに打ちひしがれたものです。

この「北陸の雄」と称されたお店の、突然の倒産の知らせは、数時間で全国各地の同業小売店の耳に入ったそうです。
「この業界の行く末はどうなるのだろう・・・」
都市銀行や大手証券会社の倒産よりも、私が一番ショックを受け、先に光明を見出すことができないと認めざるを得なかった瞬間でした。




 <第73話> 誰も歓迎していなかった長野オリンピック
1998年2月。不景気のどん底にあえぐ長野が、世界が注目する「NAGANO」へ変貌をとげる時がやってきました。
1998長野オリンピック
  
この宴に酔いしれることを、開会式の前に予想していた長野県民は、よほどの世間知らずか、不景気など関係ないと言い切れる一部の富裕層だけだったと思います。もともと日本経済がバブルに沸いていた当時に見積もられた大会運営費と、企業からの多額のスポンサー費を当て込んだ、文字通りの「バブル見積もり」のまま、長野オリンピックの準備が進められ続けてきました。

オリンピック関連施設が国家プロジェクトとして建設され、新幹線や道路網など、もともと交通網が脆弱だった長野市界隈は、他府県の方々から見ると、「オリンピック景気に沸く羨ましいところ」に映ったことでしょう。

しかし、現実は全く違っていました。都会の大手ゼネコンが暴利をむさぼり、地元業者は、搾っても何も出ないところまで搾られ続けていました。長野オリンピック開催までの数年間、長野県内の建設、土木業者の倒産は減ることがありませんでした。

一般市民は、「オリンピックが来るからと言っても、ちっとも景気が良くならない」という悲鳴に近い声が強まるばかりでした。さらには、「こんなことだったら、オリンピックなんか来ないほうが良かった」という声も聞こえ始めたのです。

盛大な開会式が始まりました。
会場となった長野運動公園オリンピックスタジアムは、このとき、世界中の人々から注視されていました。私は直線距離にして500mほどのところに所在していた店舗に勤務していました。店の外からスタジアムが丸見えになっていましたが、現実の距離とは裏腹で、何か遠い別世界の出来事のように、テレビに映し出された開会式の光景を黙って見つめていました。

「とうとう始まるのか・・・」 感動などありませんでした。地域に暮らす住民の立場としては、日中は外出禁止令と言っても過言ではないほどの交通規制がかかり、通勤や通学、買い物に不便を生じる2週間の始まりなのです。

「早く終わってくれないかなあ・・・」
その時の私の正直な感想でした。



 <第74話> 真夜中の雪道を白馬まで
1998年2月。長野オリンピック。
地元長野が静まり返る中、マスコミはお祭り騒ぎのように世界の舞台となったNAGANOを伝え始めました。

「オリンピック? それが一体何なのだ?」 と言いたげな長野の人々を一変させる事態が生じたのは、大会4日目のことでした。メダル獲得の下馬評に上がっていなかった女子モーグルの里谷選手が、完璧な演技で金メダルを獲得し、興奮冷めやらない中、スピードスケートで清水選手が金メダルを獲得すると、日本国中、興奮のピークに達しました。

その興奮が持続されたのは、大会後半に予定されていた荻原選手らのノルディック複合と日の丸飛行隊のジャンプ競技が控えていたからでしょう。暗く静まり返っていた長野県内は、大会前とは別世界のように活気づいていました。

長野オリンピックのスポンサーになっていた企業が、公式グッズを全ての競技会場で販売するための協力販売員として、私は連日、白馬のクロスカントリー会場に出向いていました。早朝から交通規制がかかるため、夜中のうちに販売する商品をトラックに載せ、真夜中の道路を白馬へ向いました。雪明りに照らされた冷たいアスファルトが真っ直ぐ延びていました。

大会直前まで雪不足だったはずが、大会に入ると同時に平年以上の降雪が続き、競技会場の除雪作業に、陸上自衛隊が投入されていました。自衛隊は除雪作業に、私たちは商品の搬入に追われる毎朝の光景が続きました。

日本人の興奮と絶叫が、日の丸飛行隊の活躍で最高潮に達し、日本は冬季オリンピックとしては過去最高の成績を収め、世界の宴は幕となりました。春遅い長野の北部地方も、まもなく3月を迎えようとする季節でした。




 <第75話> ニュージーランドへ
1998年3月下旬。
興奮の宴が終焉したにも関わらず、長野はオリンピックの興奮に包まれていました。世界の舞台となったNAGANO。国際的なイベントに関わった仕事が、父の会社としては事実上、最後の仕事でした。そして稼業は自主廃業をしたのです。

3月を迎えると同時に、私は無職失業の身となりました。この日が来ることはオリンピック前から分かっていたことでしたから、大きなショックはありませんでしたが、生まれたときからスポーツ業界に属していた私にとって、この業界から去ることは言い知れぬ寂しさを感じたことは事実です。

過去を振り返りながら寂しさに浸っている余裕も無いまま、開業して間もない長野新幹線に乗り込み、東京に向いました。翌朝の飛行機で成田空港からソウル経由でニュージーランドに向うためでした。

妻を長野に残したまま、私は単身でニュージーランドに向う計画をたて、約1ヶ月の時間をかけて、ニュージーランドを見聞しながら、海外移住の可能性を探ることを考えていました。

廃業することを決めた直後から、地域の顔見知りや知人の紹介で、再就職の話がいくつか舞い込んできました。地域に根ざす地元企業でしたが、稼業が廃業したにも関わらず、地域にしがみつくことに対して、私は拒否反応を示していました。

考えてみれば、私は今までとても小さな田舎社会の中だけで生きてきました。稼業が廃業したことは辛い事実として受け止めながらも、しかし、これは大きなチャンスを得たという感覚で、体がびりびりと痺れるように感じていたのです。

「ここで飛び出さなければ、きっと一生後悔するだろうな」
そう考えた私の狙いは、海外移住であり、海外での個人起業という方向だったのです。

海外移住先として、真っ先に頭に浮かんだのはカナダでした。しかし、その理由は客観的なものではなく、たまたまカナダに行ったことがあり、楽しい思い出があったというだけのことです。海外移住となると、しかも個人起業をするとなれば、単に海外旅行の延長で考えるわけにはいきません。あらゆる可能性を見極める必要があります。

私と妻は1年前から必死になって資料や情報を集め、最終的な答えとして、ニュージーランドを海外移住先としたのでした。しかし、私も妻もニュージーランドには一度も行ったことがありませんでした。

オリンピックが終わり、稼業の廃業と同時に私は自由の身となりましたから、迷うことなくニュージーランドへの単身調査旅行を行うに至ったのです。

あらかじめ手配をしておいた航空券を胸にしまいこみ、明日から約1ヶ月のニュージーランド渡航となります。まだ見ぬ国ながらも、私はこのとき、ほぼ100%に近い自信を持っていました。ニュージーランドは、きっと私に無限大の期待と満足感を与えてくれると思っていたのです。




 <第76話> 静まり返ったソウル・キンポ空港
1998年3月下旬。午前のフライトで成田空港からソウルに向いました。日本からニュージーランドへのルートは、大韓航空で成田からソウル経由のオークランド行きが最安値だったためです。

成田の滑走路を飛び立った機体は大きく旋回し、機首をソウルに向け順調な水平飛行に移りました。窓下には見慣れた日本地図を立体的に拡大したかのような風景が見えてきました。

快晴でしたから、白く塗られたような山肌と茶色く濁ったかのような町々が手に取るように分かりました。山梨県から長野県の上空を飛行し、目印となる諏訪湖がはっきりと認識できました。その前方に細長く広がる松本平。やがて右上方向に善光寺平が浮かんできました。

「昨日まであそこにいたんだなあ・・・」 妻や両親がそのまま残っている故郷の上空を飛びながら、なんとも妙な気持ちになったものです。

1時間半ほどでソウルのキンポ空港に到着しました。韓国に降り立つのは初めての経験です。首都ソウルの空の玄関であったキンポ空港は、お昼前の時間だというのに、寒々とした暗い空間だけが虚しく広がっているかのようでした。前年の1997年に、韓国は国家破綻を引き起こし、政府も国民も文字通りどん底の中でもがいていた、ちょうどその時に私は韓国に降り立ったのでした。

首都の国際空港とは思えないほど、人はまばらで、空港内のほとんどの店が閉店もしくは開店休業状態でした。本来ならば多くの人でにぎわうはずのロビーや待合室、免税店なども、ほとんどの照明を消して、非常灯のようなたよりない灯がともされているだけでした。

目にする場所のいたるところに、透明のプラスチック板で作られた募金箱が設置されています。ハングル文字や英語、日本語など、様々な外国語で表記されていた内容は衝撃的でした。

「世界のみなさん、韓国を助けてください!」

プラスチックの募金箱の中には、各国の硬貨や紙幣が入り乱れるように山積していました。

「国家が破綻すると、こうなってしまうのか・・・」

隣国のことと笑ってはいられません。韓国が国家破綻した1997年は、日本経済もボロボロの状態で、先行きの見通しが全く立たないままでした。

韓国は破綻した・・・  日本経済も瀕死の状態が続いてる・・・
私個人も長年営んできた稼業を廃業し、無職失業に転がり落ちた・・・
一体、この先、世界はどうなっていくのだろう・・・
そして自分はどうなってしまうのだろう・・・

乗り換えのためだけに、たった4〜5時間立ち寄ったソウルの空港の中で、私は今までに感じたことの無かった、大きくて冷たい不安に襲われていました。




 <第77話> まばゆい光につつまれたオークランドの街
1998年3月下旬。12時間のフライトは、赤道を直角に南半球へ私を移動させていました。お尻の下から突き上げられるような強い衝撃が、熟睡していた私を乱暴に目覚めさせたのは、機体がニュージーランドに着陸したことを伝えた瞬間でした。

ニュージーランド最大の都市オークランド。
最大都市をうたう割りには、かなりコンパクトな空港施設でした。考えるまでもなく、総人口がわずか400万人の国家ですから、公的な施設の規模も最小限度で済むのでしょう。

同じ欧米国家のアメリカやカナダの解放的でありつつも、どこか気が遠くなるようなスケールの大きさとは異なり、島国育ちの日本人には、むしろ好都合なサイズが広がっているオークランドの町は、とても良い印象を私に与えました。

空港から市内の中心部にバスで移動しました。アメリカやカナダでは、ダウンタウンと呼ぶ市内中心部を、ニュージーランドではシティと称します。これは、隣国のオーストラリアも同様で、イギリスの慣習がそのまま残っているからだそうです。そのシティ中心部に降り立った私は、心地よい南半球の空気と太陽を全身に受けながら、内湾を行きかう大小さまざまな形のヨットの列を眺めていました。

日本や韓国では感じられなかった、どこか穏やかな時間の流れが、周りの空気を覆いつくしていました。
「この穏やかさは何なんだろう・・・?」 
上手く言葉に出来ない疑問を抱えながら、徒歩で町外れの古びたホテルに向いました。
  
日本から予め予約を入れてあったそのホテルは、薄茶色のレンガ造りで、時代の古さを感じさせました。部屋も狭く、必要最低限の設備、窓を開けると密集した隣の建物の壁が迫り、風景など全く存在しません。しかし、値段が大変に安いことと、徒歩でシティ中心部まで移動できるという抜群の立地条件を満たしていました。その時の私にとっては十分満足できた投宿先だったのです。

チェックインを済ませ、荷物を部屋に置くと、私は再びオークランドのシティへ戻りました。ニュージーランドを海外移住の候補地に決めていた私は、ニュージーランドに居住するならば、オークランドしかない、と決め込んでいました。

そのオークランドという町を隅から隅まで、この目で確かめたかった私は、さっそく市内を循環する旅行者用のバスに乗り込みました。このバスは、オークランド市内の主だったポイントを循環しながら、広域にぐるりと一周するバスです。どこから乗っても、どこで降りても、1NZドル(1998年当時)でした。オークランドの地図を広げながら、町の東西南北の広がりや、メイン通りの名前、そこに見える風景や建物を目で追いながら、全体の距離感を頭に入れていきます。

「ここから歩いてホテルへ戻れる場所か?」
まずは徒歩での距離感が基本となります。徒歩で行動する範囲内と分かると、その距離が最大の地点でバスを降り、あたりを見渡しながら、行きかう人々の波に同化するようにして、徒歩で散策を開始します。

ショッピングや美味しいレストラン探しではありませんから、具体的な目的というのは実ははっきりしていないのです。その場で、自分がどう感じたか? という文字通り「肌感覚」というものを重視します。自分が持つ五感をフルに活用するわけです。こうした活動をするにおいては、「単独行動」が最も効果的です。

同伴者(家族や友人など)がいると、ついつい会話に気を取られたり、おしゃべりをしすぎたり、あるいは同伴者に気をつかったり、という具合になってしまいます。そうなると、五感は研ぎ澄まされません。そこに見えている風景もぼやけてしまい、町を行きかう人の雰囲気や表情を見る余裕もなくなります。

したがって、こうした現地調査は「単独行動」であればあるほど、強いイメージを五感を使って最大限に刺激されるのです。そして、私は五感のアンテナが最大限に吸収力を発揮している状態で、さらにオークランドの町の内部に向っていきました。




 <第78話> 豊かな人々と静かに流れる時間
1998年3月下旬。オークランド滞在3日目を迎えました。市内を循環するバスを利用しながら、何気なく目に留まった風景の地点で下車し、その付近を徘徊する・・・

このような作業を初日から繰り返していました。3日目になると、オークランドのシティ内の様子は概ね頭に印象付けられていき、一般的に言われている「治安が良い町」ということは疑いも無い事実として受け止められました。

日本を飛び出し、外国に移住する場合、一番気がかりなことと言えば、第一に治安、第二に人種的な差別の有無、第三に気候風土、ということになるのだろうと思います。

近年では、物価の安さが重要視されがちですが、1998年当時は日本円が強いこともあり、基本的に日本に比べると諸外国の生活物価は安く感じることができた時代でしたから、その時の私の頭の中には、物価云々というイメージはほとんどありませんでした。事実、物価は相当に安かったことを今でも良く覚えています。

オークランドという町は、治安は良く、人種的な差別も感じられず、気候に至っては申し分ありませんでした。オークランドは「常春の町」と称されますが、3月下旬は秋から冬に向う時節にも関わらず、青空が広がり、心地良い太陽の日差しは、まさに「常春」を華麗に演出していました。

治安も人種差別も、そして気候も問題ない。あとは実際に移住し、生活をスタートさせたとしたら、いったいどんな日常が待っているのだろうか?そのイメージを高める作業を、私の頭の中はすでに始めていました。

そして、おおきな課題として浮上してきたことが、仕事の問題でした。海外で生活するにしても、日本で生活するにしても、収入を得て生活基盤を維持していかなければなりません。

「いったい、この国で自分は何ができるのだろう?」
「どんなことを仕事にすることができるのだろう?」

オークランドに渡り、現実の問題に直面した瞬間でした。私はニュージーランドに留学するわけではありません。ましてや、企業の駐在員として赴任するわけでもありません。何しろ、その時の私の身分は、無職の失業者でしたから、具体的な仕事を見つけ、収入を得る道を探すことが急務だったのです。

世の中には、ものすごく頭の良い人がいて、自分で稼ぐ手段を早々に見つけることができる人も大勢いると思います。しかし、私のような凡人は、いくら考えても、いくら探し続けても、かすかな雰囲気すら感じ取れないのです。

街角の安いコーヒーショップに陣取りながら、頭の中で必至に可能性を模索しているのですが、そんな私の必死さを妨害するかのように、町を行く人々は一様に穏やかな表情を見せながら、オークランドの町全体に流れる空気は、何ともゆったりと穏やかな時を確実に刻んでいました。

オークランドの穏やかな空気に惑わされないように、私は焦りながら、もがいていました。答えを見つけようと、急げば急ぐほど、焦れば焦るほど、どんどん袋小路に追い詰められていく恐怖感を覚えるようになったのは、オークランド滞在3日目が終わろうとしていた頃でした。

そもそも、外国へ移住するということ自体、馬鹿げた妄想だったのでは? ともう一人の弱気な自分が心の中に登場しはじめました。私の心の中で、彼の存在が大きくなるにつれ、

「生まれ育った長野で暮らしていたほうが楽だよ」

という彼の言葉に吸い寄せられていく自分を感じるようになりました。




 <第79話> 自営業者という選択
1998年3月下旬。オークランド滞在3日目、シティの外れにたたずむ安ホテルの一室で、私は身を小さくしながら狭いベッドに横たわっていました。

「そろそろ、答えを見つけないと・・・」  
遊びの観光旅行ではありませんから、オークランドへ移住する可能性を探すことが、私に与えられた最大かつ唯一の宿題でした。仕事をするということは、収入を得るということであり、それがあってこそ生活が成り立つということは言うまでもありません。極めて単純なことです。しかし、場所が外国となると事情は異なってきます。

日本でならば、仕事を探す手立てもありますし、何よりも自国民ですから、職業選択の自由が保障されています。しかし、諸外国において、「外国人」という立場では、職業選択の自由がありません。

その国独自に定められた移民法に縛られるわけです。外国人として、その国に住むためには住むためのステイタスが必要です。働く場合は、働くためのステイタスが必要で、このステイタス(立場)を移民法上においては、ビザ(査証)の位置づけとして定義されます。

つまり、ビザが無ければ、どうにもならない実情があるわけです。特に永住ビザや、就労目的のビザの取得は大変に困難な高いハードルをクリアしなければなりません。手続したからと言って、ビザが発給されるものではなく、相手国の移民局を納得させられるだけの材料が揃っていないと、まず不可能です。

私は過去にアメリカの出入国でトラブルを経験していますので、ビザというものがいかに重要であり、特に永住ビザや就労ビザの取得は困難を極めるということを実感として理解していました。そこで、私が考えたのは、その国で事業を興すことによって、その国に経済的な貢献をもたらすことを前提にすることができれば、移民局は私へのビザの発給を認めてくれるはずだ、というものでした。

誰かのところで働きたいと願っても、私を雇うということは、その国の人から見た場合、確実に雇用機会を奪われた、ということになってしまいます。当然のことながら、移民局は私のような意味不明な外国人よりも、自国民を優先しますから、従って私のビザは認められません。しかし、私自身が起業し、商売を行うことで、逆に現地の人を雇用する立場になれれば、移民局の対応も変わってくるはずです。

当時の私の力では、単独で永住ビザを取得することは、まず不可能でしたし、現地で雇用を許可されるほど、特殊な技能や能力があったわけでもありませんでしたから、残された方法はひとつだけ、それが起業するというものでした。

もともと、独立心旺盛でしたから、いつかは起業したいと考えていましたので、オークランドでも、その可能性を探していました。しかし、実際に何を商売とするのか?というところで、私の思考が停止状態に陥ってしまったのでした。

海外に移住する。
個人起業する。
ビザを取る。

という方法論はまとまっていたものの、それでは具体的に何をするのか?というところで、目に見えない大きな壁が出現してきたのです。私は無意識のうちに、甘く考えていたことに気がつきました。もともと、商売家で生まれ育った私にとって、商売そのものはとても身近なものでしたし、子供の頃から「いつか自分も商売するんだ」という意気込みを抱いていましたから、できないはずがない、というおかしな自信を抱え込んでいたのかもしれません。

「いつか、きっと・・・」
と思っているうちは気楽なのですが、実際にそれが「今」となってみると、具体的な商売のネタや材料が無いことに愕然としてきたのです。私は完全に袋小路に追い詰められました。

  「このままではダメだ・・・  何か行動を起こさないと・・・」 翌朝、私はオークランドの長距離バスターミナルへ向いました。




 <第80話> ロトルアという町
1998年3月下旬。オークランドのシティ中心部に、ニュージーランド全土を結ぶ長距離バスのターミナルがあります。小奇麗にまとまったターミナルには、行き先別の乗り場が順をなし、私は「ロトルア」行きのバスに乗車しました。

とりあえずオークランドを離れ、違った景色を見ることで脳内に刺激を受けたかったということに他なりません。ロトルアまでの約4時間の移動の間、移り行くニュージーランドの風景を見ているうちに、何かヒントを得られるかもしれない・・・? そういう想いに浸っていました。

オークランドを出発し、ほどなくすると緑の丘陵地帯のあちこちに羊の姿が目立つようになりました。人間の数より羊の数の方が多い、といわれる国柄をそのまま映し出したかのような風景でした。
 
牧歌的な風景を窓越しに眺めながら、この国で自分が出来る商売のアイデアを見つけられないまま、やがて目的地のロトルアに到着しました。オークランド近郊の代表的なリゾート地ですが、ちょうどシーズンオフ(これから冬に向う頃)に入る季節のせいか、人通りはほとんどなく、妙な静かさが気にかかりました。

バスターミナルから、ほど近い安宿(バックパッカーズ)で空き部屋を確認しました。予約無しで泊まれるだろうか?という少々の不安もありましたが、シーズンオフだったことが幸いしました。6畳ほどの部屋に2段ベッドが2つ納まっている狭い4人部屋でした。

衣類だけが入ったサンドバッグ型の旅行バックをベッドに置き、夕暮れのロトルアの町を歩いてみました。都会のような喧騒はなく、静寂に包まれた空間だけが広がっていました。

特別に都会が好きという性格ではありません。むしろ、ちょっとした田舎町の方が都会よりも自分にあっていると思うのですが、ロトルアの第一印象は私にとって期待はずれのものでした。いや、むしろ、ロトルアという町全体が静寂のまま私を拒んでいるかのように感じられたのです。

「ここはお前の来るところではない・・・」

オークランドを離れ、全く別の町に足を延ばすことで、前向きなヒントが得られるかもしれない、と願った私の僅かな期待は、このとき既に消えていたのです。

その静寂は、「そもそもニュージーランドは、お前の来るところではない・・・」 と言っているかのようにも感じられ、私の意気消沈の度合いは益々深まっていったのです。




 <第81話> のページへ進む


Copyrights(c) OGT Canada Enterprise Ltd. All Rights Reserved