カナダ人が将来 住みたい憧れの町 ケロウナで・・・
疲れた心を癒しませんか・・・
これから先の人生に必要なヒントとエネルギーが必ず得られるはずです

  
  
  

滝澤のカナダ移住&起業への道のり

 <第81話> 妻に電話する
1998年3月下旬。ニュージーランド・ロトルア。
「・・・ニュージーランドは、お前の来るところではない・・・」 
ロトルアの町が私を拒んでいるかのように感じられてなりませんでした。

本来だったら3日ほどこの町に滞在し、私なりの視点で何かヒントを探ってみよう、という目的でやって来たのですが、ロトルア到着の数時間後には、すっかり意気消沈していたのです。

「ダメだ・・・ オークランドに戻ろう」
私は後ろ向きな決断を早々に下したのでした。

同時に、「オークランドに戻ってどうするのか?」 という疑問が浮かんできました。安宿の狭い二段ベッドに転がりながら、見るともなしに天井を見上げながら、改めて自分が無策の塊であることを実感したのでした。

その時の私の心境は、オークランドに戻っても、そこで何かヒントを見つけられる自信すら失っていました。

もう一方で、いっそのこと、狭い範疇を抜け出して、ニュージーランド全土を観光気分で見て周ろうか?とすら思っていました。約1ヶ月の滞在を、安宿を渡り歩く程度なら、資金的に十分可能だったのです。

今(2008年10月時点)振り返ると、あの時、何も焦ってオークランドに戻らずとも、いっそのこと南島に渡って、ニュージーの至る所を見て周ればよかったのに・・・と思うのですが。

私はそもそもニュージーランドという国は、自分が移住するに適していない国なのではないだろうか?と疑いはじめました。ニュージーは良い国です。魅力的です。しかし、日本を脱出し、海外移住をし、加えて独立自営の道を模索する当時の私には不向きだったのです。それくらいニュージーランドは偉大であり、私はちっぽけな存在に過ぎませんでした。

「オーストラリア?」

頭の中に描いた世界地図を見てみると、隣国にオーストラリアがありました。
  
「あっ!」 私はひらめきました。

高校の同級生がシドニーにいたからです。そう思うと、いてもたっても居られず、彼に会いたくなったのです。狭いベッドを飛び出し、安宿の公衆電話に向いました。国際電話で長野の妻に電話をしました。

電話に出た妻は驚いていました。何か事故があったのでは?と心配したのでしょう。私の話を聞き、安心したのか、ニュージーの印象を尋ねてきました。

「ちょっとイメージと違ったなあ・・・」

自信を失っていた私の力の無い言葉を聞いた妻は、それで全てを悟ったのか、それ以上、何も聞いてきませんでした。

「そんなことよりも、探してもらいたい物があるんだ」

私はシドニーの友人から送られてきた年賀状を探すよう妻に命じました。そこに書かれていた彼の住所と電話番号を知りたかったのです。妻が読み上げた電話番号を慎重にメモに取り、そのまま受話器を置きました。

「ようし。電話してみよう!」




 <第82話> 受話器の向うの友人
1998年3月下旬。ニュージーランド・ロトルア。
夕刻が過ぎ、あたりは真っ暗になっていました。私は再び受話器を上げ、シドニーに住む友人K君の家に電話をかけたのです。

「頼む! 電話にでてくれ!」 

私の懇願する気持ちを裏切るように、あっさりとK君は受話器を取ったのです。懐かしい声でした。K君は私からの突然の電話にびっくりしながら、変わらぬ早口で矢継ぎ早に問いかけてきました。

「ニュージーランド? ロトルア? いつまで? シドニーに来る? いつ?」

私はこれまでの経緯を説明しました。私の声の調子を察してくれたK君は、「そんなところにいるよりも、シドニーに来いよ。会って話を聞こうじゃないか」 と明るく言ってくれたのでした。

オーストラリアに行っても、具体的なヒントを見つけられる保証はありません。日本を出発する時から、私の目的地はニュージーランドであって、オーストラリアには何の興味も抱いていませんでした。

それがまさか、こんな展開になろうとは・・・
私の航空券は、成田〜ソウル〜オークランドの往復チケットでしたので、オークランドからシドニーへの往復チケットを購入する必要がありました。

ロトルアからオークランドに戻ったら、すぐに航空券を購入しなければなりません。シドニーに行ったら、何をどうしようか? そんなことを考えながら、安宿の狭いベッドの中で私はいつまでも堂々巡りを繰り返しながら眠りについたのでした。

翌朝、ロトルアからオークランド行きの高速バスに乗車した私は、流れ行く景色を眺めながら、飽きもせず今後の行方に考えを巡らせていました。

ニュージーランドに来たけれど、オークランドでもロトルアでも、先に希望を見出せるようなヒントもアイデアも全く見つかりませんでした。そして、それを素直に受け止めざるを得なかったのです。

世の中、勝ち負けで何でも決め付けることはできませんが、それでもあえて言うなら、私のニュージーランド視察の結果は、完全な敗北でした。負け戦を背負ったような姿で、私は再びオークランドに戻ってきました。

繁華街を歩き、最初に見つけた旅行代理店に入るなり、一番早い日程のシドニー行きの航空券を購入しました。出発は2日後でした。

「オーストラリアの観光ビザはお持ちですね?」

航空券を手配してくれた女性から、オーストラリア大使館の住所を聞き出しました。
1年間有効のオーストラリアの観光ビザを取得する必要があったのです。




 <第83話> オーストラリア大使館に行く
1998年3月下旬。ニュージーランド・オークランド。
オーストラリア大使館は、オークランドの中心部に建つビルの中に所在していました。

オーストラリア入国に際し、必要となる観光ビザの発給を求めるため、私は指定された階に向いました。エレベータの扉が開くと、一瞬、後ずさりしたくなるほど、そのフロアには、様々な人種の人たちで溢れ返っていました。

ビザの申請などで、私はこれまで複数の大使館を訪れたことがありました。アメリカ大使館、カナダ大使館、オーストラリア大使館、ニュージーランド大使館、それらは全て東京に在していた各国の大使館でした。

どの大使館も重厚な雰囲気でありながら、しかし、人の姿は閑散としていたように記憶しています。そうしたこれまでの大使館のイメージと全く違った空間が、私の目の前に広がっていたのです。

「こりゃ、一日仕事になるな・・・」
相当に長い時間を要するであろうことを、私は察知しました。私は順番待ちのための番号札を受け取り、ホールの隅っこにたたずみました。様々な色のパスポートが、窓口の係官の手に渡り、厳しく尋問をされている様子を私は注意深く眺めていました。

どこの国籍の人でしょうか? その人は質疑不十分とみなされたのか、観光ビザの発給を却下されました。必死に懇願する50代ほどの浅黒い小柄な男性は、やがて諦め、とぼとぼと肩を落として出口に向っていったのです。

「結構、厳しいな・・・」
私は目の前で起こっている現実を直視しながら、気を引き締めました。別の男性が窓口に向いました。東南アジア方面の顔つきです。長い長い質疑応答を終え、彼は無事に観光ビザを入手しました。そして、彼は指定された用紙と一緒に現金を係官に手渡したのです。ビザ発給の申請費用です。

「そうか、お金がいるのか。」
私は一応、財布の中を確認しました。すでに私の目の前で30名以上の申請者が厳しい質疑を経て、発給された人、却下された人、そこには既にある種の人間ドラマが渦巻いていたのでした。

そして私の順番が回ってきました。
「どこに行く?」
「シドニーです」
「目的は?」
「友人に会うためです」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

係官は私のパスポートを、疑い一杯の顔つきで眺めていました。そして、手早く観光ビザのステッカーをページに貼りつけ、
「気をつけて行ってらっしゃい!」
と片目でウインクしてみせました。

「え?」
あっという間の出来事でした。これまでの申請者が要された質疑応答の時間が15分程度とするならば、私はわずか1分程度だったのです。

「あのう・・・?」
「まだ何か?」
「申請費用はおいくらですか?」
「日本人は必要ありません。タダです。」

出入国に関して、それぞれの国同士が定めた協定があります。これは、国と国との力関係を如実に表しており、悪い言い方をするならば差別的なものにすら思えます。

日本のパスポートは、国交を保つ国との間での行き来は原則自由であり、相手国の受け入れは極めて紳士的であり、他国に比べても非常に有利な点が多いというのは世界的な常識です。

私はオークランドにあるオーストラリア大使館で、まざまざとそれを体験したのでした。




 <第84話> シドニーへ
1998年3月下旬。ニュージーランド。
ニュージーランドの空の玄関と言われるオークランド国際空港の待合ゲートで、私はシドニー行きの搭乗手続きの開始を待っていました。

オーストラリアとニュージーランドの間は、ほとんど国内線に近い雰囲気でした。機内に乗り込んだ私は、旅客機特有の小さな窓から、ニュージーランドの風景を眺めました。

海外移住地のニュージーランドを見聞するために、私は相当な覚悟でこの国に乗り込んできたのですが、気が付けば1週間にも満たない時間を過ごしただけでした。飛行機が高度を上げるに従い、私の悲壮感も高いものに変っていきました。南太平洋の大海を見つめながら、安易にオーストラリアへの移動を選択したことを少しばかり後悔しはじめたのです。

1ヶ月間という長い時間があったにもかかわらず、早々にニュージーランドを引き揚げてしまうよりも、いっそのこと1ヶ月間のニュージーランドの旅を楽しんだ方が良かったのではないだろうか?と思えてきたのです。

ニュージーランドは魅力的な国です。この国を嫌いになったわけではありません。移住する国として、私のイメージと違っていたにすぎません。ただ、私が訪れたのは、オークランドとロトルアという異なる性格を持つ2つの町だけでした。

南島に渡る手前には、首都のウエリントンがあります。南島には、クライストチャーチがあります。見るべき町は、もっとあったはずなのに・・・ そう思うと、すぐにでも引き返したくなるような衝動に駆られました。

ニュージーランドにいると、オーストラリアに行きたくなり、ニュージーを発つと引き返したくなる、何とも妙な心境に包まれたものです。ニュージーランドが良かったのか? それともオーストラリアか?この時点で、私は海外移住地として、どこが最適なのかを見失っていました。

やがて、機体はシドニー上空を旋回しはじめました。機内アナウンスが流れました。滑走路の混雑具合から、しばらく時間調整のために旋回を続けるということでした。

私は窓下に広がるシドニーの町を食い入るように眺めました。オペラハウスが見えます。その横に架かっている橋が有名なハーバーブリッジです。強烈な太陽光線に照らされた湾内には、無数のボートやヨットが白い帯を描いていました。

シドニーという都市の大きさを計るには、十分すぎるほどの遊覧飛行でした。そして、初めて訪れるシドニーを空から見下ろした印象は、大きくて、眩しくて、美しい都市というものとして、私の脳裏に刻まれたのでした。

「この町に、あいつがいるのか・・・」
高校の同級生が住むシドニーへ、やがて機体はゆっくりと高度を下げながら滑走に向っていきました。




 <第85話> 友人との再会
1998年3月下旬。オーストラリアの最大都市シドニーに、私は生まれて初めて降り立ちました。その3年前に、妻と二人でパースを訪れたことがあったので、オーストラリア自体は2度目でした。

地図で分かるとおり、パースはインド洋に面した大陸の西側です。一方のシドニーは太平洋に面した東側になりますから、同じ国でありながら、体中で感じるセンサーは異なった信号音を鳴らしているかのようでした。

体のセンサーが感知した差異の正体は、パースとシドニーの違いではなく、私自身の心の持ち方の違いであることを、空港に到着した時に理解できていました。

パースの時は、妻と二人で5日間ほどの安くて短いパックツアーを利用したものでした。今回のシドニーは、海外移住地を探るための下見であり調査です。パースは遊びであり、シドニーはその後の人生の行方を占うものですから、目的の違いから来るプレッシャーは比べ物になるはずがありません。

強い南半球の日差しを浴びながら、空港の外に踏み出した途端、何種類もの騒々しい音が耳の中に割り込んできました。その喧騒は、もう何年も忘れていた活気であり、景気の良さを感じさせるものでした。

2000年シドニー五輪を控えた空の玄関は、まさにオリンピックによる公共投資がピークを迎えている風景そのものだったのです。つい数週間前まで、長野オリンピックの会場で仕事に就いていた私には、夏と冬の五輪の勢いが、こんなにも違うものなのか? と素朴に感じずにはいられませんでした。

陽気な笑顔を振りまくタクシーの運転手の表情からも、この町の景気が良いであろうことが容易に伺えます。その陽気な運転手をつかまえた私は、シドニーに住む友人に指定された住所を書き記したメモを彼に見せました。

「OK! OK!」
すぐに判断ができたようです。私はサンドバック型の旅行バッグをタクシーのトランクに入れ、タクシーに乗り込みました。

「シドニーは景気が良いみたいですね?」
「お客さん! シドニー五輪のことは知っていますよね? シドニーはますます景気が良くなっていくことは間違いないですよ!」

運転手の陽気さは、元々の性格もあるのでしょうが、やはり好景気という追い風が彼の笑顔の幅をさらに膨らませているようでした。

20分ほどで目的の場所に到着しました。私がイメージしていたのは、郊外の閑静な住宅街だったのですが、到着した場所は、人や車が川のように流れる大都市のど真ん中だったのです。

シドニーに住む高校時代の友人は、仕事が終わったら私と合流できるということでした。それまでは、彼の家の近くで時間を潰しているように、という指示でしたので、私は疑うことなく郊外の住宅街を想像していたのです。

まず最初に、彼の家の番地を探しました。高層のオフィスビルが立ち並ぶ都会の通りを歩きながら、いとも簡単にお目当ての番地は見つかったのです。

「??? ここはホテルか? いや、ちょっと雰囲気が違うな・・・」手にしたメモに書き記した住所に間違いはありませんでした。

友人が指定した時間まで、1時間ほどありましたので、彼の家とおぼしき高層のホテル?の周りを適当に散策しながら、私は時間を潰していました。指定された時間がきたところで、再び高層ホテル?の玄関に戻った私は、目の前を忙しそうに行き来する人の波を眺めていました。

「おお! 迷わず来れたか! 久しぶりだな!」

行き来する人の波を、上手に泳ぐように、あまりにも普通に友人が現れました。




 <第86話> ここは松本じゃない! シドニーです!
1998年3月下旬。オーストラリア、シドニー。高校時代の友人「K」は、満面の笑顔で私を迎えてくれました。高校2年次と3年次の2年間、彼と同じクラスでしたが、在学中は格別に仲が良かったわけではありません。もちろん悪かったわけでもありません。

Kと私の不思議な巡りあわせを感じたのは、大学3年の夏のことでした。長野県の松本で高校の同級会があり、私は高校を卒業して依頼、はじめてKと再会しました。お互いに深く語ることもなく、同級会は終了したのですが、その1週間後、私とKは前触れなく再会したのでした。

私たちが再会した場所は、アメリカのサンフランシスコでした。夏休みを利用して、私は単身で1ヶ月のアメリカ南部と西海岸を放浪していました。一方のKは、大学のサークル仲間と10日間のアメリカ旅行を楽しんでいる最中でした。

ケーブルカーで有名な坂道が続くサンフランシスコのダウンタウンを、私は1人で歩き続けていました。前方から妙に見慣れた風体の東洋人が歩いてきたので、「よく似た奴がいるものだなあ」 と思ったところ、それがKでした。

「お、お、お、おい!」
「お前、何やっているんだ? 何でいるんだ? ここに!」

両者ビックリして、一瞬固まった後、大笑いとなりました。1週間前に松本で会ったときは、アメリカ旅行のことなどお互いに一言も語らなかったのに、偶然とはいえ、あまりにも出来すぎの事態に、私もKも大層驚いたのでした。

それ以来、私とKの距離感が縮まったように思います。現に、私はニュージーランドからKに電話をし、突然の電話に驚いたKは、「シドニーに来いよ!」と言ってくれたのですから、こんな有り難い友人はいません。

さて、私はKに促されるままに、豪勢なホテル?とおぼしき建物の中に案内されました。そこは、シドニーでも有数な高級コンドミニアムだということでした。Kの部屋は14階のフロアにありました。

「す、すごいな! すごい眺めじゃないか。さすがに14階ともなると違うなあ!」

私が田舎モノ丸出しで喜んでいると、すかさずKが切り返しました。
「まあな。オペラハウスは見えないが、景色も悪くないだろう」

そう言うKの顔は自信に満ち溢れていました。結婚して間もなかったKは、奥さんと一緒に日本を脱出し、シドニーに渡りました。そしてすでに2年が経過していました。これから海外に移住しようとする私の先を行く先輩であり、最高のお手本でした。
  
「まあ、軽く飲みながら懐かしい話でもしようじゃないか!」
私以上に、Kの方が聞きたいことが山のようにあったのです。

話は瞬時にして高校時代に戻りました。同級生のその後の様子や、母校の野球部の活躍の一部始終などなど、気が付くとシドニーの空は濃い色を深めていました。

「シドニーにまで来て、松本の話かよ!」
「まあまあ、良いじゃないか! 今日は懐かしい松本の話をしようや!」




 <第87話> テラスで語る Kとの時間
1998年3月下旬。オーストラリア、シドニー。
友人K夫妻は、それぞれ会社勤めの日々を送っています。朝8時前になると、彼ら夫婦は出勤をします。居候の身である私も、同じ時刻に家を出ます。

彼らはそれぞれの仕事場に向かい、私はとりあえずオペラハウスがあるシドニーの名所サーキュラキーへ向かいます。私の行動は毎日決まっていました。マクドナルドで一番大きなサイズのコーラを買って、オペラハウスを正面に眺められるベンチに座り、一人ぼっちのミーティングを始めます。

「う〜〜〜〜ん・・・ どうしたものか?」
ミーティングのテーマは毎日同じでしたが、結論が出ないということも同じでした。

シドニーという街は大変に巨大です。都市としてのサイズはアメリカ並でしたから、徒歩や公共交通機関だけでは、シドニーの全貌を掴むことはできませんでした。

しかし、おおよそ毎日決まったエリアを散策しているうちに、シドニーという街のイメージが私の頭の中で出来上がっていったのです。まず、雰囲気が異常なくらい明るく、これは目前に迫ったオリンピックの影響もあるのでしょうが、景気の良さは日本やニュージーランドとは全く異質なものでした。

国土や経済力の違いのせいなのでしょうか、ニュージーランドとの格差は想像を越えるほど大きなものを感じました。一人ぼっちミーティングで、唯一導き出せた答えは、

「移住するならニュージーよりもオーストラリアの方が良い」 ということだけでした。

これは、当時30歳だった私のような年齢で海外に移住し、独自に商売を興すという場合に限った発想と結論ですから、立場が変ればニュージーの方が良いという人もいるでしょう。

午前中の一人ぼっちミーティングを終えると、シドニーの街中を散策し、その後、友人Kが退社するであろう午後5時過ぎになると、私は彼の会社の正面玄関でKと待ち合わせをするのでした。まるでKを待つハチ公みたいな毎日でした。

その後、近くの定食屋で食事をし、その後はKの家のテラスで夜中まで語り合うという毎日が続いたのでした。
  
「どうだ? 何か良い作戦は見つかったか?」

もともとビジネスセンスに長けているKでしたから、私が何を考え、何を決断するのか?ということについて興味津々だったのです。私は、アイデアや方法論をまとめては、Kに説明しました。Kの反応は実に様々でした。

「う〜ん、気持ちは分かるが、それで採算に合うか?」
「それで最大月額いくらの売上になる?」
「そのアイデアは悪くはないが、俺ならやらないぞ」

Kは私の話に真剣に耳を傾けてくれ、彼なりに必死にアドバイスをしてくれました。しかし、どれをとってもKを納得させられるだけのアイデアや方法論が、私はありませんでした。Kは揚げ足を取るようなことは一切せず、私以上に親身になってくれていました。しかし、そんな唯一の応援者であるKすらも、私は納得させることができなかったのです。

翌朝、私はまたコーラを片手に一人ぼっちミーティングに臨むのでした。そして、その夜もまたKと二人で夜のテラスミーティングを続けていたのです。考えても考えても、「これだ!」というアイデアが見つからないまま、シドニーの滞在は間もなく2週間を過ぎようとしていました。



 <第88話> 私の背中を押した女性
1998年4月上旬。オーストラリア、シドニー。
シドニー滞在が2週間を過ぎようとしていました。友人Kと私はいつものようにKのコンドミニアムのテラスで語り続けていました。

「あ、そうだ! 明日おもしろい夫婦を紹介するよ!」 Kが私に言いました。
翌日、Kに連れられた私は、同じコンドミニアムの40数階まで、エレベーターで上がったのです。Kは慣れた様子で、お目当ての部屋の扉をノックしました。

「どうぞ! いらっしゃい!」
扉が開くと、私たちと同年代の日本人夫婦が笑顔で迎えてくれたのです。その部屋の主は、M夫妻という方で、私やKと同じ年でした。M夫妻の御主人は、シドニーの旅行会社に勤務され、ツアーアテンドをされているのだそうです。一方のM夫人は、ネイルサロンを経営されているということでした。

私たちは、すぐに意気投合しました。同じ年だということ、海外でビジネスを興したいと思っていること、それらの共通点が、私たちの距離感をあっという間に縮めたのでしょう。しかし、決定的な違いがありました。友人のK夫妻も、M夫妻も、すでに目標に向かってスタートしているのでした。一方の私はまだスタートラインにすら立てていません。この違いの大きさに、私はショックを受けたのです。

今でこそ、ネイルサロンはあちこちに乱立しています。しかし、1999年当時では、まだほとんど見かけない時代でした。M夫人はちょうど1年前に自分のサロンをシドニーの中心街にオープンさせて、毎日大車輪のように働いているのだそうです。

「明日、うちの店に来てよ!」 M夫人が私に言いました。
「まつ毛パーマの実験台になって欲しいの!」 M夫人が続けました。私のまつ毛が長いことに気がついたM夫人は、そう言って私を促しました。
  
翌日、私は指定された時間に、M夫人のネイルサロンを訪ねました。M夫人は、2名の従業員を使いながら、この日も予約で一杯だというお客さんに向き合っていました。

私は言われるままに、椅子に座り、ちょうど歯医者で診察を受けるような状態で、まつ毛パーマの実験台になりました。終了までの1時間ほどの間、私とM夫人はいろいろなことを話しました。

「来年はハワイに店を出そうと思うのよ!」
「その前に、シドニーのお店をもっと広くしたいのよね!」
「どっちを先にすべきだと思う?」

M夫人は、矢継ぎ早に私に話してきました。私はビックリしたのです。シドニーでお店を経営するだけでも、私から見れば成功者に見えるのですが、休む間もなく、次の方向付けを考えているのですから。また、それを堂々と口に出して言葉にするのですから、相当な意気込みや覚悟がなければ、そんなことは言えないはずです。また、高飛車なところがなく、自慢する風でもなく、全くの自然体なのです。

「この人は、大物だ!」 私はM夫人の度量の広さに魅了されました。

「滝澤さんも、早くスタートしてよ! 楽しみにしてるからさ!」

強烈な一言でした。言葉の内容は優しいものの、
「何をグズグズしているんだ?」
「やるなら、とっととやれ!」

と言われているようなものだったのです。

「よし! 決めた! 来年には必ず移住する!」
M夫人の言葉で、私は大きく背中を押されたのでした。




 <第89話> カナダか? オーストラリアか?
1998年4月上旬。オーストラリア、シドニー。
M夫人の強烈な言葉によって、私はアクセルを一気に踏み込む決意をしました。日本から海外に移住するにあたって、移住する国を決めかねていた私は、自分の中に期限を設けることにしました。いつまでも、ニュージーか? それともオーストラリアか? カナダか? などと迷っている時間は無いのです。

「俺、決めたよ!」 私は友人のKに宣言しました。
「今年の夏までに、どの国にするか?それをはっきりさせる!」

「そうだな。目的地が決まらなければ何も始らないからな」 Kは言いました。

私は変に慎重だったのです。移住もさることながら、商売の可能性の高い国はどこだろうか? という視点だけで移住する先を見つけていたのです。しかし、その時点の私はあまりにも無力でしたから、どこの国であっても、状況に大差はないのだ、ということにようやく気がついたのでした。

「それで、具体的にはどうする?」 Kからの質問に、
「帰国したら、すぐカナダに行く! まずカナダを見るよ!」
私の頭の中には、次の候補地カナダが浮かんでいました。

3月中旬に日本を離れ、ニュージーランドで1ヶ月間の個人視察を目的にした滞在は、結果的に大半をシドニーで過ごすことになり、その滞在も間もなく終わろうとしていました。帰国前日、友人のK夫妻と、私に強烈なパンチを与えてくれたM夫妻と私の5名で、盛大な食事会を行ないました。

M夫人 「いつカナダに行くの?」
私   「5月の連休明けに行きますよ。10日間ほど」
友人K 「とにかく、どこの国にするか? 早く決めろよ!」
  
M夫人 「オーストラリアにしなさいよ! シドニーにおいで!」
M旦那 「そうですよ! 何か一緒に出来そうじゃないですか!」

私は、後ろ髪を引かれる想いでした。
「シドニーにします! シドニーに決めました!」 私は反射的にそう答えたくなりましたが、それでは、あまりにも幼稚です。友人K夫妻も、そしてM夫妻も、すでに独自の道を開拓し、走り出しています。簡単にシドニーに決めてしまうということは、多かれ少なかれ彼らに甘えることになります。

私は、この時点で、「オーストラリアへの移住は無いだろうな」 と感じていました。彼らに甘えることはしたくなかったのです。それよりも、別の場所でスタートラインを作って、大急ぎで走り出し、早く彼らと同じ土俵に上がりたかったのです。そうすることによって、正々堂々と彼らと競いたいと思ったのです。

M夫人 「結果がどうなったか? 必ず教えてよ!」
私   「ええ。必ずご連絡しますよ!」
友人K 「っていうか、その時には報告を兼ねてシドニーに来いよ!」
私   「ああ、分かった。必ず来るよ!」

2週間以上に渡るシドニーでの滞在は、私に大きなインパクトを与えてくれました。友人のKはもちろんのこと、M夫人の強烈なパワーとバイタリティは、何よりも大きな薬となりました。


  文中のM夫人の正しいアルファベットは、「K」ですが、友人も「K」のため、本文では
  M夫人という記載にしております。 私が尊敬する実業家です。
  現在、世界3カ国で事業展開されています。

  http://www.nailsalonkoko.com/




 <第90話> 次はカナダだ!
1998年5月中旬。カナダ・バンクーバー。
新婚旅行で訪れて以来、3年ぶりのバンクーバーに私は降り立ちました。清々しい空気は、テキサスやシドニーのものとは違い、バンクーバー特有の優しさがあったのです。

国際線の到着口を出ると、懐かしい顔が迎えに来てくれていました。私が24歳のとき、ワーキングホリデーでカナダに滞在していた際に、ケロウナという町でお世話になった在住日本人の安座間さん(第20話に登場)でした。私がケロウナに行くことを連絡した直後に、バンクーバー空港まで迎えに来てくれるという知らせを受けたのでした。

「久しぶりだな!」
「すいませんね、わざわざバンクーバーまで来てもらっちゃって」

安座間さんは沖縄出身だ。沖縄からカナダへの移民者は大変に多く、沖縄返還前から農業開拓移民団がカナダ各地に移住しているのです。沖縄出身者のコミュニティは強固で、ちょうどバンクーバーで大掛かりな集会があったために、彼もバンクーバーに来ていた、ということでした。

偶然にも私が到着する日に、安座間さんはケロウナに戻る日だったので、ついでに空港でピックアップしてあげる、というタイミングに至ったわけです。バンクーバーから東に向かうハイウェイ1号線をひた走ります。ワーキングホリデー時代に、何度も行き来した懐かしい風景が車窓に広がります。ケロウナまで、4時間半ほどのドライブ。

「で? ニュージーやオーストラリアはどうだった?」
車中では、私が数ヶ月前に経験してきた2つの国での出来事で盛り上がりました。

「そうか。外国に移住することは本気なんだな?」
「ええ。本気ですよ!」
「ま、お前さんなら必ず出来るよ! 大丈夫!」

ニュージーやオーストラリアと違って、少なからずカナダで経験を積んでいた私は、障子紙に水が染み込むように、カナダの空気に馴染んでいったのです。

陽が長いカナダの初夏の夕暮れ。無事に安座間さんの自宅に到着しました。今日から1週間ほどお世話になる家です。安座間さんの奥さん、子供たち、見慣れた顔が歓迎してくれました。私は海外への移住、そして個人起業の夢を安座間さん夫妻に打ち明けました。相談のはずだったのですが、自分を鼓舞するために、いつの間にか熱弁に変っていたのです。

「そこまで強い意志と覚悟があるなら、やりなさい!」

シドニーのM夫人と同じように、ここでも強く背中を押されたのでした。同時に、もう引き下がれない、という覚悟がようやくできたような気がしました。カナダは広い国でです。一口にカナダと言っても、どこで生活をし、起業をするのか?ということが次の課題となるのですが、この点について私に迷いはありませんでした。

バンクーバーか?
ケロウナか?

二者択一である。その他の町は一切眼中に無かった。これは、私がカナダに滞在していた時に、実際に住んでいた町です。そして、どちらも魅力的な町です。前半の約1週間がケロウナ、後半の3日間がバンクーバー。これが今回の滞在日程でした。そして、この滞在でどちらの町を選ぶのか?それを決めるのが、滞在の大きな目的のひとつだったのです。

「いつまでも迷ってはいられない! この滞在でハッキリ方向を決めよう!」

私は改めて決意を固めたのでした。




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