カナダ人が将来 住みたい憧れの町 ケロウナで・・・
疲れた心を癒しませんか・・・
これから先の人生に必要なヒントとエネルギーが必ず得られるはずです

  
  
  

滝澤のカナダ移住&起業への道のり

 <第91話> 再会、そして依頼と合意
1998年5月中旬。カナダ・ケロウナ。
カナダに到着した私は、ケロウナで最初の朝を迎えた。カナダで唯一の準砂漠気候だけあって、雲ひとつ無い快晴。湿度が低いため、カラッとしていて心地良い。
私はケロウナのダウンタウンに向いました。ワーキングホリデーのとき、ケロウナでは約1ヶ月間を過ごしたが、その時に働いていた日本食レストランを訪ねました。

夜のディナー時間しか営業していませんが、仕込みは昼過ぎから開始されています。懐かしい顔と再会しました。
レストランのオーナー。(第18話に登場) 日系三世のカナダ人の彼は、いつもと変らぬ穏やかな表情で迎えてくれました。

「ビクター! 久しぶり! 元気だった!」
「ああ、元気だったよ!」

3年ぶりの再会に、私たちは固い握手を交わました。私は今回のカナダ訪問の理由と、来年には海外移住、個人起業を立ち上げる夢を彼に語りました。ここでも熱弁だったのです。そして、私は本題に入りました。一口に海外に移住すると言っても、乗り越えなければならないハードルがたくさんあります。その最も大きな課題が、「ビザ」(滞在査証)です。

いわゆる「永住ビザ」が取得できれば良いのですが、このハードルは困難を極めます。単純にその国に住みたいから、永住ビザを申請しよう、という訳にはいかないのです。申請するための条件は、移民法によって毎年見直しされますが、基本的には見直しのたびに、どんどんハードルが引き上げられていくのです。

その国が求める海外からの移住者というのは、高学歴、高収入、高技術であることが必須条件で、自力で生活を営む能力が無いと見なされてしまうと、永住ビザの取得は不可能となってしまうのです。予めカナダの永住ビザ申請条件を調べた私は、とても申請するに値する立場でないことを事前に理解していました。しかし、だからと言って諦めることはできません。
  
さて、どうするか?
  
私はこれまでに、アメリカ、カナダ、ニュージー、オーストラリアを渡りながら、いつも頭の中に個人起業と永住ビザというキーワードが宿題のように刻まれていました。徹底的に調べ上げていたので、ビザに関する知識はかなり持っていたのでした。

永住ビザの取得が無理だと悟った私は、ある仮説を立てました。まず、私がカナダに会社を設立します。その事業内容はカナダの経済や雇用に貢献できるものであり、なおかつ既存の業種、業者を脅かすものではない、というものであったとした場合、「就労ビザ」の発給に至る可能性があるのでは? と考えたのです。

もちろん、これは100%保証された方法ではありません。本やインターネットにも出ていません。ましてや大使館になど行っても教えてくれません。あくまでも私の仮説です。

この仮説が正しいとした場合、私は日本国籍なので、カナダでは外国人となります。外国人が会社を設立すること、そこから就労ビザが発給される可能性があるだろうこと、そして、そこから事業としての実績を積み、永住ビザにたどり着くことができるであろうこと、これらをビクターに話したのです。

彼は興味深く、私の話を聞いてくれました。私が、ワーキングホリデーで彼のレストランで働いていた当時から、「僕はカナダで起業する!」と言っては、様々なビジネスプランを彼に語っていたからです。

商売の感覚は相当に高いものがあるな、というイメージを彼は抱いていました。事実、ワーキングホリデービザの期限が終わる直線、私はビクターと会社設立の手前まで計画を進めていたことがありました。(第36話で紹介)

私の意気込みや、本来の企画力を知っている彼は、迷うことなく、「よし!やろう!」 と即答してくれたのです。次の課題は、会社設立と就労ビザ取得という私の仮説が正しいか、それを検証する作業に入ることでした。

「弁護士に相談してみよう! さっそくアポを取ってみるよ!」

私の海外移住、そして海外起業の夢が、大きく一歩前進したような気がしました。




 <第92話> カナダ・ケロウナで決定
1998年5月中旬。カナダ・ケロウナ。
私はビクターと共に、弁護士事務所を訪れました。私が組み立てた仮説で可能かどうか?を相談するためだったのです。
かなりドキドキしましたが、弁護士の回答は瞬時でした。この作戦は何ら問題ないということで、思った通りだったのです。

ただし条件がありました。永住ビザを持たない外国人の私が会社を設立し、その後就労ビザ、そして永住ビザを求める場合、カナダ国籍者または永住ビザを持つ人を、最低2名会社の取締役に入れることが条件だということだったのです。また、将来的に永住ビザを申請する場合、常識的な額を給与として支払うことが必要だということでしたが、これは想定の範囲内でした。私のような外国人がカナダで会社を興す場合、カナダ人の雇用は求められると思っていたからです。

私は、ビクターと私の友人のカナダ人に、取締役になってくれるよう依頼しました。そして、彼らはそれを受け入れたのです。

「で? 業務内容は? それから会社名は決まっているかい?」
弁護士は、にこやかに私に質問を投げかけてきました。

業務内容?
会社名?

私は全く考えていませんでした。特に業務内容に関しては、ニュージーやオーストラリアを巡る中で、いつも考え続けていた宿題だったのですが、明確なビジネスプランは全く何も見えてこなかったのです。

「早急に考えます!」
私は弁護士に強く訴えました。

スタートラインに立つことを急ぐ余り、ビザ取得の方法論に集中していた私は、肝心の商売の内容を未だに見つけられずにいたのです。不思議そうに私を眺める弁護士に向かって、

「7月! 7月にもう一度来ますから、その時にはっきりした回答をお伝えします!」
まったく無鉄砲だったと思います。

会社設立と、その後の就労ビザ取得の可能性が見えてきました。また、そこから実績を積むことで、永住ビザの可能性も見えてきました。私にとって100点満点の手ごたえを感じることができたのですが、さらなる宿題が待ち受けていました。

どんな商売をするのか?

これを決めなければなりません。しかも、ここまで来たら、ゆっくりとしてはいられません。
「どうする? 何をする?」

弁護士事務所を後にした私の頭の中は、もう次の宿題と課題で一杯になっていたのです。同時に、これまで全く見えなかったスタートラインが、手の届くところに見え始めたような、そんな嬉しい感覚が沸き起こってきたのでした。




 <第93話> 決めた!ケロウナでやろう!
1998年5月中旬。
カナダ・バンクーバー。私は後半の3日間の滞在をバンクーバーで過ごすため、ケロウナからバンクーバーに移動しました。ケロウナで十分な手ごたえを得た私は、何か大きな一歩を踏み出している気持で一杯でした。会社を設立できること、そこから最初の就労ビザの取得が可能なこと、この2つは私が組み立てた仮説が正しかったことを認めてくれたようなものです。3日間のバンクーバー滞在の間に、私は自分に宿題を与えていました。

移住する場所、つまり起業をする場所は、ケロウナで良いのか? 具体的な事業は何にするのか? 7月のカナダ再訪のスケジュールを決めること。この3つが宿題の中身でした。まず、7月再訪のスケジュールは簡単に決めることができます。何故なら私は無職でしたので、時間はいかようにも作れたからです。

さて、残るは2つの難しい宿題です。私は晴天が続く5月のバンクーバーの空の下、ダウンタウンを歩き続けながら、ひたすら考え続けていました。商売を興すには、市場が大きい方が有利です。当然、バンクーバーという大きな市場の方が、地方都市のケロウナよりも魅力が増します。しかし、私はここで、ある疑問を感じました。日本人でカナダに移住し、起業を目指す人は、同じように考える人が多いのだろうと。つまり、ほとんの人がバンクーバーで仕事を立ち上げようとするでしょう。

そうなると、競争相手が出現します。市場のパイの奪い合いとなります。日本で激烈な価格競争、サービス競争の末、消耗戦を繰り広げて、自主廃業した父の会社の末路を見てきた私は、市場競争に対して、強いアレルギーがありました。バンクーバーは魅力的な街なのですが、そのアレルギーがあるとしたなら、私としては最適な場所ではない、ということになってしまいます。

一方のケロウナはどうでしょうか? 確かに日本人もかなりな数の人が暮らしています。しかし、私が何となくイメージしていた商売というものを行なっている人は誰もいませんでした。

私がぼんやりとイメージしていたものは、カナダと日本を行き来できる商売でした。それは、物品、情報、人、そして私も含めたアイテムと称するものが、2国間を行き来できるような、そんな商売をイメージしていたのです。となると、バンクーバーには既に先んじて行っている日本人の人がいると考えた方が自然です。私ですら考えるようなイメージを、目先が利いて商才のある人だったら必ずやっているはずです。

「バンクーバーだったら、二番煎じか・・・ いや、二番どころか何百番になるか・・・」
「まてよ? ケロウナだったら、一番手だな」

この瞬間、私は自分の移住先、そして起業する場所をケロウナに決めたのでした。理由は極めて簡単でした。誰もやっていないところで、私がある程度の商売を形にできたとすれば、かなり注目されるのではないだろうか?

注目されるということは、自然に知る人が増えるということになるので、宣伝効果は大きいはずであり、その結果、良い巡り合わせ、良い出会いに結びつきやすいのでは?私はこのように考えたのです。

「よし! ケロウナにしよう!」




 <第94話> 決まらない事業計画
1998年5月中旬。カナダ・バンクーバー。
残る宿題は1つです。どんな事業をするのか? つまり商売の具体的な内容です。
  
「う〜〜〜〜〜〜〜ん・・・」
私の脳みそは、右脳と左脳が腕組みをしているような状態でした。快晴の5月の季節を楽しむ余裕もないまま、碁盤の目になったバンクーバーのダウンタウンを歩き続けていました。
カナダに会社を作ることは可能になった・・・
就労ビザの申請、取得も可能性が見えてきた・・・
移住する先は、ケロウナに決めた・・・

これまで、難しくてなかなか組み立てられなかった複雑な人生パズルが、パタパタッとはめ込むことができるようになっていただけに、残り1つのパズルのピースだけが、はまらないことに、私は焦りを覚えていました。大きな資金があるわけもなく、協力なバックボーンは無く、すぐに商売に結びつく技術やサービスなどは皆無でした。

「いったい、ここからどうやって組み立てるのか・・・?」
私の脳みそは、腕組みの強さが増すばかりでした。
  
バンクーバーのダウンタウンには、日本食レストランやお土産屋さんが乱立し、人気のロブソン通りには、多くの日本人観光客が溢れていました。私はある事に気がつきました。カナダに移住して、カナダに住み、そしてカナダで起業するからと言っても、求める商売のマーケットやターゲットもカナダに限定する必要は無いな、ということでした。

普通は、カナダに移住して起業するとした場合、移住した先のカナダで商売をするという発想になると思います。つまり、私がカナダに移住して起業した後は、カナダの市場でカナダに住む人を対象に、カナダドルで売上を立てる、という理屈です。

そうなった場合、仮にカナダでそこその成果を収め、商売の形を作ることができたとしても、カナダと日本を結びつけることや、行き来することができなくなるのでは? という疑問が生じてきたのです。

これは、ある意味、とてもムシの良い考え方なのでしょうけれど、私はカナダに住みながら日本の市場を相手に商売をしたいという考え方を優先することにしたのです。そうなると、いわゆる旅行関係か? あるいは貿易業務か? または他に何かヒントがあるのだろうか? 私はこの難題に挑むことになってしまいました。最後の1つのピースがなかなかパズルにはまらないのです。しかし、これを確実にはめ込まなければ、その先が見えてきません。

答えが見つからない時は、いったん頭の中をクリアにして、全くの白紙に戻してから、大雑把な絵を描くに限ります。歩きつかれた私は、街角のカフェに座り、コーヒーをすすりはじめました。そもそも何がしたいのか? という視点を変えて、やりたくない商売の形は何か? を逆方向からたどってみたのです。

これは明確な回答がすぐに頭に描かれました。つい半年前まで、私は長野で父の会社に従事していました。子供のころから、ずっと見てきた商売です。しかし、時代の移り変わりと共に、その使命を終えた末の自主廃業でした。ミジメでした。もう二度とああいう商売はやりたくない!と思ったのです。店舗を持った商売で、物品の仕入れが伴い、在庫リスクを抱えてしまう、こうしたスタイルです。簡単い言えば、お店屋さん商売です。規模の大小を問わず、お店屋さん商売だけは避けたいと考えていました。

お店の中で生まれ育ち、生活の場はいつもお店だった、そんな環境で育った私がこうした気持になってしまうのですから、何とも皮肉な話です。お店屋さん商売というのは、本来は一番楽しい商売の原点とも言えるスタイルです。ただ、悲しいかな、世の中の変化のスピードが、なかなかそれを許してくれない時代に変ってしまったのです。




 <第95話> 長野県と家族への宣言
1998年5月下旬。
カナダから帰国した私は、そのまま長野に舞い戻りました。今回のカナダ滞在で、私は大きな手ごたえを掴み、それを妻や両親に伝えるべく、その内容は、まだ完全ではないものの、意気揚々とした気分でした。

「決まったよ! 移住する国はカナダ。場所はケロウナ!」
両親と妻は、特に驚いた様子はありませんでした。

「そうなると思ったよ」
「ニュージーやオーストラリアは無いだろうなあ、と予想していたよ」

私が、これまでにカナダと一番縁が深かったことや、ケロウナとのつながりを知っていた家族の顔には、さして驚いた様子がありませんでした。ここで家族から反対されると、非常に厄介なことになります。海外移住は、人生の中で大きな決断を要します。それは自分自身のみならず、家族をも巻き込んでしまう結果になりますから、家族の賛成や理解は、どうしても必要になるのです。

私はすでに家族には説明済みでしたし、もともと事業家の両親は、私が新しいことにチャレンジすることについては、全く反対しませんでした。もちろん不安もあったことでしょうけれど、だからと言って、私を狭い長野の田舎に押し込めたい、という気持は皆無だったと思います。私は今後のスケジュールを家族に説明しました。まず、私が7月に再びカナダに行き、会社を設立することと、その後のビザの申請手続までのスケジュールです。

今まで全く具体的なスケジュールが考えられなかった私は、7月からのスケジュールを家族に説明しながら、ようやく先に進める目処が立った、という感触を得ました。

「よし! ここまで来たら絶対に引き下がらない! あとは進むだけ!」

私は自分を言い聞かせる意味も含めて、家族に宣言をしました。この後、いろいろな不安や心配事も出てくるでしょう。その時に尻込みしないために、口に出して、彼らの前で宣言したのでした。

長野県で生まれ育った人は、長野県が大好きです。ある調査によると、Uターン率が最も高い都道府県は、長野県だそうです。この結果に私も納得できます。長野県民は、世界中で長野県が一番住みやすいところ、暮らしやすいところだと信じて疑いません。閉鎖的であり、しかし郷土愛に満ちているのです。私も長野県で生まれ育ちました。多感な年頃の全てを長野県で育ってきました。他の長野県民同様に、長野県に対する愛着は相当強いものがあります。

カナダへの移住や起業に対して、ふと不安になったとき、「このまま長野で暮らした方が良いんじゃないのか?」 という気持ちになるであろうことを、私は予想していました。その気持ちに負けてしまうと、カナダへの移住が果たせなくなります。

私が最も恐れたのは、自分の心の中に、「やっぱり長野で暮らしたい」という気持ちになってしまうことでした。そうならないためにも、「長野県への決別」という大袈裟なタイトルを自分の心に刻むためにも、まずは家族に宣言したのです。

「来年中には、カナダに移住する!」

私は決意を固めたのでした。




 <第96話> カナダ人の弟と再会
1998年7月中旬。
私は夕刻の成田空港から、カナダに向けて飛び立った機内で、ノートパソコンを広げていました。1ヶ月半ぶりに、再びカナダを訪れるためです。今回の滞在は1ヶ月半ほどの長期間となります。会社を設立することが最大の目的であり、移住をし起業をする場所をケロウナという町に決めた上は、夏の1ヶ月半の時間をつかって、徹底的にケロウナという町を調査したかったのです。

バンクーバーでケロウナ行きの国内線に乗り換えました。予定通りの時刻にケロウナに到着した私は、空港でレンタカーを借りました。ケロウナ滞在中の私の需要な移動手段を確保したのです。

空港から私が向かった先は、アンドリューの家でした。(第50話に登場)6年前の1992年に、アンドリューはワーキングホリデービザで来日し、丸1年間を私の実家にホームステイをしていました。

「僕は1年間も長野のアナタの家でお世話になったのだから、1ヶ月半くらいは僕の家で滞在してくれ!」 
彼にそう言われた私は、彼の行為に甘えることにしたのです。

私がカナダに移住すること、起業すること、そしてその場所がケロウナであることを我が事のように、彼は喜んでくれました。年齢は私より4歳下ですし、長野で1年間一緒に暮らしていましたし、私の仕事の補助役でしたから、私たちは、ちょっとした兄弟みたいな関係でした。

「で? 具体的にはどんなビジネスをするの?」 到着早々、彼の質問を受けた私は、明確な答えを用意していませんでした。移住し、起業する場所がケロウナに決まった、ということだけで、商売の具体的な内容は、まったく見えてこなかったのです。日本にいるよりも、ケロウナで考えた方が良い、という判断もあり、私は1ヶ月半という長期間の滞在スケジュールを組んだのです。

「そうだなあ・・・ 何となく決まっているけど、ハッキリしたら教えるよ」 私は彼の質問に対して、そう答えるのが精一杯でした。

「ビール・・・ 飲んでも良いかい?」 アンドリューは無類の酒好きです。長野にいた当時も、交番のおまわりさんを困らせるなど、幾多の珍事件を引き起こしていましたが、相変わらず酒好きは変っていないようです。

「ああ! 僕はコーラで良いから」 6年ぶりの乾杯でした。
適度にアルコールが入った彼は、饒舌になり、長野での懐かしい思い出を語りはじめました。彼にとっての日本は、長野県そのものだったのです。

「今度はあなたがカナダに来る番だから、僕が何でも協力するよ!」
そう言ってくれた彼が、とても大きく、頼もしく見えました。私は改めてケロウナに移住する、と決めたことが良かったと思いました。一口に海外に移住し、起業するとなると、自分ひとりの力ではあまりにも無力すぎます。現地の人の協力や信頼関係が無ければ、相当な困難を覚悟しなければなりません。私は幸運にも、アンドリューをはじめ、ケロウナに知人や交友関係が育っていましたから、その点ではとても恵まれているのだなあ、と改めて思い知ったのでした。




 <第97話> ゴルフツアー
1998年7月中旬。 カナダ・ケロウナ。
ケロウナという町の大きな特徴は、住みやすさにおいてはカナダ屈指の人気を誇っているという点です。準砂漠気候ですから、カラッとした爽やかな気候が楽しめます。また、この気候が適するワイン用ブドウの栽培が盛んで、良質なワインを生み出すワインの町でもあります。

そして、もう一つの特徴は、ゴルフ天国の町としての知名度が高いのです。私は、1ヶ月半のケロウナ滞在の中で、できる限りゴルフをするようにしました。もともとゴルフは好きでしたので、ケロウナに移住した後は、徹底してゴルフを楽しもうと考えていました。

1998年当時、ケロウナには8つのチャンピオンシップコースと、6つのミニコースが点在していました。当時の料金は現在(2009年)の半分ほどの価格でしたから、大変リーズナブルだったのです。夏の日差しが熱い午後になると、ゴルフ場はどこもガラ空きでした。私は予約無しで一人で適当なゴルフ場に行き、その場で組まされたカナダ人たちと一緒に、ほぼ毎日ゴルフを楽しんでいたのです。

事業内容を決めるにあたり、ひとつだけ明確なアイデアがありました。このケロウナの魅力あるゴルフの環境を日本に売れないだろうか?というものでした。つまり、日本人のゴルフ好きの人を、ケロウナに連れてきてゴルフを楽しんでもらう、というものです。ゴルフツアーです。

そのためには、まず徹底して私が全てのゴルフコースの概要や詳細を熟知する必要がありましたので、実地調査という勝手な言い分を込めながら、私は連日ゴルフに興じていたのです。どんなに上手い人でも、全く初めてのコースの場合、思ったような実力を発揮できないというのがゴルフの難しいところです。上手く攻略できたホールもあるでしょうけれど、大きな罠にはまって、悔しい想いをするホールもあるはずです。

上級者になればなるほど、「ちくしょう!もう一度チャレンジしたいなあ!」という衝動に駆られるわけです。これが自らリピーターとなる動機に繋がるだろう、というのが、私の仮説だったのです。確かに私自身も、毎日ゴルフを続けている中で、同じような心境になりました。

「明日、もう一回行ってリベンジしたい!」
そういう気持になるのです。これがゴルフの面白さなのでしょう。

ケロウナには魅力的なゴルフコースがたくさんあります。しかも、このゴルフリゾートは、日本では全く知られていなかったのです。

「知られざるゴルフ秘境の町 ケロウナ」
これはイケるぞ! という手ごたえを感じた私は、最初の事業の取っ掛かりとしてゴルフツアーを立ち上げることに決めたのです。そう思うと、なぜカナダに移住して、住む町がケロウナなのか? という理由が明確になります。自分自身がカナダに移住し、起業する前提として、ゴルフツアーを業務にするのだから、ケロウナが最適地である、という理屈になるわけです。

ようし! ケロウナでゴルフツアーをやるぞ!

今までなかなか決まらなかった事業内容が、ようやくハッキリとした形として見えた瞬間でした。




 <第98話> 会社名をどうする?
1998年7月中旬。 カナダ・ケロウナ。
ケロウナのダウンタウンに、ビクターが経営する日本食レストランがありました。営業時間が終わり、片付けが終わった時間を見計らって、私は裏口からレストランの厨房に入りました。

ケロウナで私は会社を作るのですが、そのためには、彼を取締役という形で迎え入れなければなりません。これは法律で定められたことです。その時点の私は、単なる旅行者に過ぎません。移民法上、その立場で会社を設立し、その後、私のビザを申請、取得するための条件として、カナダ人を雇用し、更には取締役に入れることが必要だったのです。

私は、ビクターとアンドリューにお願いをしていました。彼らは快くOKしてくれていましたので、後は事業内容を決める段階に来ていたのでした。その事業内容を、ゴルフツアーに決めたことを伝えるために、営業終了後の彼のレストランに向かったのでした。

私は少し興奮気味に、彼にゴルフツアーの概要と、具体的な販売方法、実施の際のオペレーションについて、早口で語り始めました。すでにその日のお客さんも、スタッフも全員いなくなったレストランの客席で、私たちは夜中まで話し合いを続けていたのです。

1998年当時の日本は、相次ぐ金融機関の倒産などで景気は良くありませんでしたが、それでも何の影響も受けずにゴルフを楽しむ層は確実に存在していました。ましてや、カナダまでゴルフに来る人たちというのは、必然的に富裕層に限られます。どうせ商売をするなら、いたずらに価格競争に巻き込まれないユーザーを求めるべきで、それはニッチであればあるほど、獲得する確率が高まると予想していました。

ケロウナの魅力あるゴルフ環境と、今現在の日本の市場の特徴を比べながら、私は一定の集客は見込めるだろう、という予想を仕立てていました。しかし、細部を検証すると、あまりにも都合が良すぎるのではないだろうか、と自分に対して疑問を呈する気持も芽生えたことは事実です。ただ、いつまでも答えを見つけられずにいては、何のアクションも起こせなくなります。

私は重箱の隅を突っつくような考えに至ることを封印しました。何事も初めてのチャレンジです。不安なことは山ほどあります。言い出せばきりがありません。そんなことを言い出しても、何も進みません。

そうした私の考え方に、ビクターも同調してくれました。
「とにかくチャレンジしよう!」
私たちは、その時点でスタートラインを無理やり作ってしまったのでした。

次は弁護士に依頼して会社設立の手続を開始してもらうわけですが、ここでまたひとつ宿題が増えました。会社名をどうするか? ということでした。

事業内容のことで頭の中が一杯だった私は、会社名を考えていませんでした。会社の名前くらい、すぐに決められる!とタカをくくっていたのです。ところが、実際に決めよう、と思うとなかなかアイデアが出てこないのです。

また、ゴルフツアーの会社ですから、社名でそれが認識できる名称でなければならないというルールがカナダにあることを、その時に初めて知ったのでした。つまり、○○○○ Golf Tour Company というように、末尾にはその商売の内容を意味する名称を付けることが必須だというのです。

あれ?
確かにゴルフツアーを業務にすることは決めたものの、私はツアー会社をやりたい訳では無いのです。また、ゴルフツアーというのは最初のスタートの第一歩であって、ツアーのビジネス意外にも、チャンスがあればどんどん業務にしていきたいと考えていました。

「いやあ、まいったな・・・」
会社名などは、簡単に決まると思っていたのですが、思わぬ宿題を抱えることに
なってしまったのでした。




 <第99話> ついに決まった会社名
1998年7月中旬。 カナダ・ケロウナ。
会社名を決めるにあたって、まさかこんなに悩むとは思っていませんでした。確かに、ゴルフツアーを業務とすることには何の迷いも無かったのですが、それを含めた全ての業務内容をツアー会社としてしまう事はできませんでした。ゴルフツアーを最初の足がかりにしながら、それ以外の商売のチャンスがあれば、どんどんチャレンジしたかったからです。

ケロウナ市を中心とするこの地域は、オカナガン地方(Okanagan)と呼ばれています。オカナガンと言えば、気候が温暖で、広大なオカナガン湖の回りには、大小のワイナリーが点在し、リンゴやチェリーなどのフルーツの産地としても有名です。

社名には、「ケロウナ」よりも、「オカナガン」の方が、雰囲気が良さそうだと思いオカナガンを社名の一部に組み込もうと考えました。そして、一応の体裁としてゴルフツアーで会社を設立、登記しますので、Okanagan Golf Tour として、その後ろに、Canada を付けることにしました。

Okanagan Golf Tour Canada 
私は、これを社名に決めました。そして、弁護士に正式な会社設立の手続をお願いする際に、「Okanagan Golf Tour Canada」では社名が長すぎるので、一部を省略して、OGT Canada で認めてもらえるように、と考えたのです。もし、これで認められると、ゴルフツアー以外のビジネスを行なう場合であっても、ツアー会社という雰囲気の社名ではありませんから、体裁が良いと考えたのです。

また、「OGT Canada」 とは、何の意味ですか? と聞かれた場合に、私の名前から、Osamu Great Takizawa (滝澤修の偉大な会社)という意味です、と説明することで、ちょっとした笑い話になるだろう、という狙いもありました。もちろん、ゴルフツアーの業務だけで、十分にやっていけることになれば、その意味を「Okanagan Golf Tour」と説明すれば良いわけですから、どちらに転んでも意味が通じる社名として、OGT Canadaに決めたのでした。

さて、会社設立の手続きの席上、この私の考えを弁護士に説明したところ、
「うーん・・・・」 弁護士は難しい顔つきに変わりました。

そして、弁護士は、社名を見て何の会社か判別が付かないことを理由に、この社名では登記が認められないという結論を下したのです。私は、ツアー業務以外にも、たくさんの仕事をしたいので、ツアー会社では困るのだと食い下がりました。すると、弁護士の顔が柔和になり、「それほど難しい問題じゃないよ」と笑いながら、「エンタープライズを付ければいいのさ!」と笑いながらアドバイスをしてくれたのです。

エンタープライズ(Enterprise)は、日本語で言うと、社名の後ろに付く「商会」、「興業」、「実業」のようなニュアンスになります。そうすることによって、社名から業種の意味が分からない場合であっても、通用するようになり、従って登記もできる、ということでした。

この結果、私が設立した会社は、「OGT Canada Enterprise Ltd.」 に決まったのです。「ようやく決まった!」 私はこれで全ての準備が終了したことを実感できたのです。さんざん悩んできた移住する国の選定、最初に立ち上げる業務は何にするか、社名をどうするか、それらの宿題がようやく終わったのでした。

もちろん、これで何かが保証されたり、約束されたわけではありません。初歩の初歩としての準備が整った、ということに過ぎません。大切なのは、カナダに移住して、商売を順調に立ち上げ、継続させていくことですから、ここで安心してはいられないのです。




 <第100話> ついに会社が出来た!
1998年7月中旬。 カナダ・ケロウナ。
社名が決まり、弁護士に会社登記の手続を正式に依頼をしました。登記が完了するまで、おおよそ3週間を要する、ということでしたので、私はそれまでの間、ケロウナに留まりながら、夏のカナダを楽しむことにしました。

人間とは不思議なもので、いったんアクセルを踏み込むと、そのまま踏み込んでいたいという欲求に駆られるようです。会社を設立できたと言っても、実際の業務がすぐに行なえるわけではありませんが、とにかく、私は何か仕事めいたことをしていたかったのです。

ゴルフ場に行っては、各ホールの写真を撮ったり、ゴルフ場はもちろんのこと、各ホール毎の特徴をコメントにまとめたり、ケロウナの見所を訪れては、実際のツアーの行程を下見するなど、やらなければならないことは山のようにあったのでした。

夜になると、日本から持参したノートパソコンに向かって、ホームページに没頭しました。それまで全く知識が無かったホームページの作成については、この夏の時期に集中して取り掛かれたことが、後々になって良い結果をもたらしたのです。

8月中旬のある日、私は弁護士事務所を訪れました。会社の登記が完了したので、サインを求められたのです。社名は無事に、「OGT Canada Enterprise Ltd.」で許可が降りたのでした。登記の日付は、1998年7月22日 と記されています。とうとうやった!ここまでたどり着いた! 何とも言えない満足感を味わいました。

弁護士から、会社の登記簿を渡されました。分厚いファイルに閉じられた書類の束でした。これが、会社を設立し、登記したという証明になるのです。私の次のステップは、東京にあるカナダ大使館に出向き、会社を設立したことを告げながら、私のビザの申請をすることですが、その際に会社を設立したという証明のために、この登記簿のファイルが必要だったのです。

「よし! これで次は大使館に行ってビザの申請だ!」
  
私の目の前には、次のスケジュール、目標がはっきりと見えていました。ケロウナの滞在日数は、残り1週間ほどでした。日本はちょうどお盆が終わった頃です。
  
「これで日本に戻ったら、すぐにカナダ大使館に行こう!」

そう思うと、今すぐにでも日本に出発したいと思ってしまうのですが、さすがにそういうわけには行きません。次のスケジュールがはっきり決まっているのですから、残り1週間のカナダの夏を満喫することに気めたのでした。翌日から、私は筆記用具の全てを持参して、街中のコーヒーショップにこもったまま、まるで受験生のように、あらゆることを計算してはノートに書き込むということを繰り返していました。シュミレーションです。

売上見込みや、かかる経費の額などを、あーでもない、こーでもない、と考えてはノートに書き込んでいたのです。もちろん、それを実証すべき材料は何もありません。単なる私の思い込み、空想、イメージだけを材料にしていたのです。もっとも、それくらいしか材料は無かったのですが。

全ては空想、イメージなのですが、実はこういう時ほど商人としての感覚が研ぎ澄まされます。全くのゼロ、全くの白紙の状態から、何かを形にしていく、という作業は不安でもありながら、しかし妙な楽しさがあるのです。確かにこの時の私は、先々の不安よりも、これから先に広がるであろう光景に目を奪われながら、ひたすら空想をしては、ノートに書き込む作業を続けていたのです。




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