カナダ人が将来 住みたい憧れの町 ケロウナで・・・
疲れた心を癒しませんか・・・
これから先の人生に必要なヒントとエネルギーが必ず得られるはずです

  
  
  

滝澤のカナダ移住&起業への道のり

 <第101話> 在日カナダ大使館へ
1998年9月 東京。1ヶ月半のカナダ滞在を終えた私は、帰国するとすぐに東京の在日カナダ大使館に向かいました。カナダで会社を設立したことを前提に、私自身の就労ビザの取得を願い出るためです。

最初から永住ビザが取得できれば良いのですが、永住ビザのハードルは雲の上に感じられるくらいの高さと困難さだったために、まずはカナダに行くことを優先する手段を考えた結果、会社設立と、就労ビザの発給を求めたのです。

ケロウナの弁護士は、カナダに会社を設立することで就労ビザの発給は問題ないと言っていましたが、しかし、それを保証できるものはありませんでした。従って、私はこの未知なる挑戦のステージに飛び込むことになったわけです。東京にある在日カナダ大使館の建物は威圧感たっぷりでした。正面玄関からエレベーターで指定されたフロアに降りました。

カナダ大使館査証部。
ここがビザを発給するセクションです。ワーキングホリデービザや、留学ビザも全てのビザの受付は、この査証部が取り扱います。番号札を受け取り、整然とした待合室の椅子に私は腰を下ろしました。次々と番号で呼び出された人たちが立ち上がっては、受付窓口に向かいます。

大使館というのは、自国民の行政サービス機関ですから、相手国の国民に行政サービスを施す立場ではありません。また、大使館そものもが法的には治外法権の場所ですから、私がいるその場所も法的にはカナダ国内と同じ意味合いとなります。

ですから、日本のお役所のようなサービスを求めることはできないわけです。私の番号がアナウンスされ、指定された窓口に向かいました。厚いガラスで仕切られた向こう側に、日本人の係官が座っていました。

「何の御用でしょうか?」

非常に慣れた、それでいて冷たく威圧感のある問いかけでした。その無表情な対応は、私の予想通りのものだったのです。

「カナダに自分の会社を設立しましたので、就労ビザの発給をお願いします」

私は、冷たい係官の事務的な対応に負けないほどの冷静さを保ったまま、極めて機械的に返答をしました。

「申請用紙に記入後、郵送してください。後日、面接の通知が届きます」

係官の返答は、あっけないものでした。もっと根掘り葉掘りいろいろなことを聞かれるだろう、と思っていたからです。

「面接の時に、事業計画書と資金計画書、雇用計画書を持参してください」

係官は全く表情を変えずに、付け加えました。あっという間でした。厚いガラス越しに係官と向き合った時間は、おそらく1分くらいだったと思います。あっけないほどでした。大使館を後にした私は、近くの喫茶店に入り、渡された申請用紙に目を通して、事業計画書、資金計画書、雇用計画書が必要という旨をノートに記入しました。

次に、就労ビザの申請用紙を書き上げ、用意していたパスポートのコピーと一緒に封筒に入れ、査証部の住所を封筒の表に書き込みました。喫茶店を出た私は、再びカナダ大使館の方向に向かいました。大使館の隣に郵便局があります。そこで切手を購入し、その場で投函したのです。

「よし! これで申請用紙の郵送は完了だ!」

たった、これだけの作業なのですが、具体的なアクションとしての新しい一歩を踏み出せた気持ちを感じていたのです。




 <第102話> パソコンに向かい続ける日々
1998年9月。 長野に戻った私は、カナダ大使館が求めてきた事業計画書、資金計画書、雇用計画書の作成に取り掛かりました。

当時、パソコンを購入して2年目だったということもあり、パソコンの操作にはまだ不慣れな点がたくさんありました。この機会に徹底してパソコンを習得しよう!と考えていた私にとって、それぞれの計画書をパソコンで作成するという宿題は大変に都合が良いものだったのです。

当時のパソコンは、動作速度も遅く、現在のパソコンのようにスムーズにいかない点が多々ありましたが、それ以上に私には十分すぎるほどの時間がありましたから、昼も夜も忘れて、ノートパソコンの画面に向かっていたのです。

事業計画書のポイントは、私がカナダで起業をし、事業経営をすることによって地元カナダの経済や雇用にどれだけのプラス要因をもたらすことができるか?ということを主張しなければ意味がありません。単純に儲かりそうだから、成長産業だから、という理屈は感心されないのです。なぜなら、その時点の私は日本居住の日本人ですから、カナダ側から見た場合、私は単なる外国人でしかありません。

外国人がカナダに移住して、事業を起こすことによって、既存のカナダ企業や、業者、そこで働く人々に不利益が被ると判断された場合は、いかに優れた事業内容やアイデアであっても、ビザの発給を却下される恐れがあるのです。つまり、単純に自分のやる気や熱意だけを訴えてもダメだということです。私は外国人ですから、いろいろな角度からカナダという国の事情や立場を考慮しなければなりません。

カナダに限らず、どこの国であっても、まず先に優先すべきものは、自国民の安定した雇用確保です。外国人が頑張るということは、裏返せば自国民の雇用機会を奪うことに繋がるわけです。当然、日本という国もそうした考え方ですから、外国からの移民受け入れに関しては、日本は鎖国状態なのです。

この点、カナダは移民を受け入れることによって、国家が形成されてきた、という歴史を持ち、今現在も移民政策を実施している国です。そういう意味では、カナダという国に移民することは簡単ではありませんが、不可能ということもないのです。そして、私はそれにチャレンジしようとしているのです。

ここまでたどり着いたのですから、パソコンで事業計画書を作成することくらい、何てことはありません。漫画のようですが、食事、風呂、トイレ意外は、ひたすらパソコンに向かい続ける日々が続きました。

一通り書き下ろすまでに、約10日間。そこから見直し作業を始めて、校正やレイアウトのバランスを取りながら、1週間ほどで完成したのでした。総数200ページほどに達していました。

「これで完成だ!」
200ページほどの書類を、何度も何度も読み返しては、質問されるであろう問答を想定しながら、何を聞かれても完璧に答えられる準備を頭の中で開始しました。そして、書類のほとんど全てを暗記するまでに至っていました。




 <第103話> いざ! カナダ大使館へ面接に 
1998年10月中旬。在日カナダ大使館査証部。
面接の通知を、長野の狭いパートで受け取ったのは9月下旬でした。私は次のスケジュールに備えて、大使館に提出する書類を再度、見直しました。完璧な内容でした。書類の内容は、全て私の頭の中に入っており、想定される大使館との質疑応答のシュミレーションも頭の中で組み立ててあったのです。

指定された日時に遅れることは許されません。もし、長野新幹線の運行ダイヤが狂ったらどうしよう? ということも考慮した私は、前日の夜は東京で泊まりました。面接は翌日の午後でした。これも地下鉄などの遅れがあっては一大事、と考えて、大使館付近に2時間前に到着し、近くの喫茶店で待機していたのです。面接時間に十分間に合うように、私はカナダ大使館査証部に向かいました。通知された面接内容の用紙を受付で見せました。

「○○○号室にお入りください」 
事務的にそう告げられた私は、指定された部屋のドアを開け、その部屋に入りました。

まるでテレビドラマに出てくるようなセットのようでした。刑務所の面会室そのものです。厚い防弾ガラスの壁。会話をやり取りするためのマイクとスピーカー。書類を受け取るための小さな投函口。その他には何もない殺風景な空間でした。

就労ビザの申請書は無事に受理されたのですが、この面接で却下されたら全てが水の泡と化します。ニュージーランド、オーストラリアに行き、そしてカナダに渡り、会社の設立までたどり着いた、これまでの半年間が思い出されます。

いったい、どれくらいの時間をかけ、いくらのお金を遣ったのか? また、たくさんの人たちに相談をし、アドバイスや助言をもらいながら、今この瞬間を迎えているということを、私は改めて噛み締めたのです。

「これから始る面接でしくじる事はできない!」
万が一、ここで失敗をしたら、これまでの半年間が無駄に終わるだけではなく、そもそも、私が夢に描いた海外移住そのものが振り出しに戻ってしまうのです。私は相当に緊張していました・・・ と言いたいところなのですが、私には全く緊張感がありませんでした。昔からこうした極限の状態には慣れているというのか、緊張感が高まる場面になればなるほど、リラックスできてしまうのです。

「よーし! どうなるか? 結果が楽しみじゃないか!」 
という気持ちになるのは、野球をやっていたせいだと思います。私はずっと投手でしたから、試合でマウンドに立つと、もう自分を信じて投げるしかありませんでしたし、絶対に弱気になれないという癖が付いていたのです。

「お待たせしました」
厚い防弾ガラスの向こう側の扉が開き、40歳とおぼしき係官が登場しました。さあ! いよいよプレイボールです。




 <第104話> ガラス越しの面接
1998年10月中旬。在日カナダ大使館査証部の面接室。分厚い防弾ガラスの壁が向かい合った係官と私をさえぎりながら、予定通り面接が始りました。その厚いガラスの下に、横に細長い投函口があり、私は求められるままに、パスポートをその投函口から係官に提出しました。

「具体的にはどんな事業ですか?」
全く表情を変えないまま、係官は最初の一声を私に投げかけてきました。予想していた通りの一球目を投じられた私は、「待ってました!」とばかりに、 ケロウナで私が展開する事業の内容、その将来性、そしてその確実性を訴えました。加えて、地元経済に貢献できる点や、雇用促進の可能性も広がる点などを説明したのです。

「事業計画書はお持ちですか?」
投じられた2球目も予想した通りの球筋でした。

「はい。これになります!」
200ページほどの書類を、パスポートと同じ要領で投函口に押し込み、ガラスの向こう側にいる係官に提出しました。

「随分りっぱな事業計画書ですね」
係官は、初めて表情を変えました。

「ええ。もともと事業計画書などの書類作成は前職時代から手馴れていましたので」
これは完全なアドリブです。大使館が見定めるポイントの一つは、カナダで事業をするだけの経営能力が申請者本人に備わっているのか?という点です。つまり、いくら起業する、事業を興すと言っても、それなりの経験や知識が備わっていなければ、しょせんは絵に描いた餅なのだ、ということを前提にしているわけです。

係官は、ぱらぱらと書類をめくりながら、
「これだけ綿密に考えているなら問題ないでしょう」
そう言ってくれたのでした。

「頑張ってください。ケロウナという町で本格的に事業を興す日本人はいないと思いますから、遣り甲斐はあると思いますよ」

「へっ???」
私は呆気にとられました。もっとたくさんの質問が矢継ぎ早に浴びせられるだろうと想定しながら、その返答を組み立てていたからです。それが、あっという間に終わってしまったのですから、私は拍子抜けしたのです。

「あのう・・・ これで終わりでしょうか?」
「ええ。もうこれで十分です。いつカナダに出発されますか?」

私はすっかりリズムを狂わされていました。いろいろな質問のパターンを想定していたのですが、カナダへの出発時期については、具体的に考えていなかったからです。
  
「来年の3月ごろを予定しています」
私はとっさに答えました。

「半年後ですね。それまでには書類をご自宅に郵送しますので」

面接に要した時間は、10分にも満たなかったと思います。実際には30分くらい掛かっていたのかもしれませんが、感覚的には10分くらいの出来事だったのです。

「これでOKなのか? OKなだよなあ・・・」
あまりにも呆気ない面接、そして合格の結果に、なんだかキツネにつままれたような気持ちのまま、私はカナダ大使館を後にしたのです。




 <第105話> ついに来た!
1998年10月下旬。カナダで会社を設立し、その後のビザの申請、面接を終えた私は、カナダ大使館から送られてくるであろう郵送物を待ち望む日が続いていました。10月も終わりになろうとしていたある日、家の郵便受けに待ち望んでいたカナダ大使館からの封書が入っていました。

「来た!」
私は急いで開封し、中に収められていた書類を引っ張り出しました。書類は全て英文でしたが、さっと目を通しただけで、それがお目当ての書類だということが分かりました。分からない単語を辞書で調べつつ、改めて文書の意味を読み込みました。内容は思ったとおりのものでした。

「就労ビザ発給のお知らせ。審査の結果、申請者は就労ビザ取得の要件に満たすと判断されました」

重要な部分は、短い文章でしたが、この意味が私の人生にもたらすものは表現できないほどの大きさなのです。これで、私はカナダへ移住することができるのです。もちろん、これは永住ビザではなく、1年更新という期限付きの就労ビザですから、本当の勝負はこれからなのですが、しかし、そのための最初のスタートラインに立てたということは、紛れも無く人生の大きな節目を得たことになります。

海外旅行の場合は、こんな苦労をする必要はありません。留学やワーキングホリデーの場合も、ビザの取得は手続きさえ踏めば簡単です。しかし、私のような立場で、就労ビザを取得するというのは、言い表せないほどの高い壁、深い溝が存在しているのです。

その高い壁を乗り越え、深い溝を飛び越えることができたんだ、という実感を、私は長野の狭いアパートの中で噛み締めていたのです。

「よし! これでカナダに行けるぞ!」
そうなると、次のスケジュールを組み立てなければなりません。大使館の面接で、3月にカナダに行くと言った手前、出発の時期は翌年3月にしようと決めたのです。1999年3月、それが私と妻のカナダ移住の出発の日となるのです。約4ヵ月後に迫ったカナダ移住の日までに、やることは山積してます。

海外への引越しはどうしたら良いのか?
愛犬を伴う場合はどうしたら良いのか?
それまでに日本で行なう営業活動はどうするか?

思いつつままに、私はノートに書き出してみました。細かいことまで含めると、けっこうな仕事量になります。しかし、それは前向きなこと、つまりカナダ移住をスタートさせるために必要な作業ですから、全く面倒に感じませんでした。

「ようし、明日から忙しくなるぞ!」




 <第106話> 誰も理解してくれない
1998年10月下旬。長野。私がかねてから、海外移住を考え、その準備を進めているということに、友人や知人の多くが興味を示していました。

「どこに行くか決まったか?」
「いつ頃、出発するんだ?」
「どんな仕事をはじめるんだ?」

という質問を半年以上前から、言われ続けていました。ようやく、明確な答えを彼らに伝えることができます。移住地はカナダのケロウナ。会社も作り、ビザの発給も認められたという事実も含め、海外移住を現実のものにできる条件が揃ったのです。私は友人や知人に、この事実を伝えながら、自分の喜びの限りを説明したのです。ところが、私の話を聞かされた友人や知人の反応は予想外のものばかりでした。

「すごいなあ! それは良かったな!」
というような反応を期待していたわけではありませんが、しかし、話の意味は理解してもらえると思っていたのです。ところが、現実は全く違ったのです。私の話を聞かされた彼らの反応は、全く理解できない、という表情だったのです。もちろん、否定的な意見があったわけではありません。しかし、そもそも肯定するとか、否定するとか、あるいは意見やアドバイスを述べるというような感覚ではなかったのです。

何故なら、彼らにとって私が考え、準備してきたことの全てが、未知なる世界のものだったからです。海外移住も、そのために外国に会社を作ることも、あるいは海外に住むために必要なビザというものの存在も、彼らにとっては日常の中に存在しないばかりか、取り留めて必要のないものだったからです。つまり、そうしたものに対しての経験や知識は無いのですから、良いとか悪いとかの判断がつかないのです。

私はこれから海外に移住しようとしてました。そしてカナダという国に自分の会社を作り、起業していく道を選んだわけです。しかし、私の友人や知人のほぼ全ては、長野県で生まれ育ち、長野県の学校を出て、長野県の会社に勤めて、長野県で暮らしている立場です。結婚した相手も、同じように育ってきている長野県の人ですから、自然と親族も同じような環境で育ってきた人ばかりになります。務めている会社の同僚や上司も同じような環境で育ってきている人でしょうから、感覚や常識、経験値というものが、長野県が基本になっているのです。

そういう人たちが、私のような感覚の話を聞かされたら、それは異質なものとして受け止められるだけです。友人や知人としての交友関係は何も変っていませんし、昔話には花が咲きます。しかし、過去の話をしても未来は変りません。私が彼らと話したかったことは、昔のことではなくて、これから先のことだったのです。しかし、そうした先々の話をすればするほど、私と彼らとの間には言いがたい距離間や溝が生まれてきたのです。

このとき、瞬間的に妙な寂しさを感じました。しかし、私はすぐに開き直りました。いくら説明しても理解できない人には、話しても意味が無いなと。ケンカしたわけではありませんし、仲が悪くなったわけでもありません。ただ、人生の選択肢が私と彼らとでは違ってしまった、ということなのです。

長野県で暮らしていくことに疑いを感じず、それが良いと思っている人と、私のように、生まれ育った故郷を自らの意思で飛び出して、海外に向かおうとする者とでは、感覚が合うわけがありません。こうした話を母に説明したときに、母は迷わず私に言いました。

「ダメダメ! あんたがやろうとしていることを、この辺の長野の人間が理解できるわけがないよ! 話たって無駄だ!」

母に言われるまでもなく、私はそれ以降、故郷の友人や知人には、カナダへの移住や、起業のことを話さなくなったのでした。




 <第107話> 再びオーストラリアのシドニーへ
1998年11月上旬。オーストラリア・シドニー。11月初めに友人の結婚式に出席するため、私は横浜に赴いていました。結婚式が終わり、用意された横浜のホテルに泊まった私は、翌日、成田空港に移動しました。

この日のフライトで、オーストラリアのシドニーに出発するためです。3月から4月にかけて、私がシドニーに滞在中、高校時代の友人に随分と世話になっていました。海外移住や起業に関わる相談者として、彼は私にとって、最大の理解者だったのです。

4月にシドニーを去ったあと、私はカナダで会社を作り、事業内容も決めて、そしてカナダ大使館で就労ビザの発給までたどり着きました。その報告を彼にすると同時に、具体化してきたカナダ移住について、とにかく彼といろいろと話をしたかったのです。

11月初めのシドニーは初夏を思わせる強い日差しに包まれていました。そこが紛れも無く南半球であることを実感したのは、シドニー国際空港から一歩外に踏み出した瞬間でした。日本とは違う、またカナダとも違う、どこか乾いた空気を全身で感じながら、私はタクシーに乗り込み、友人Kが待つ自宅へ向かったのでした。

シドニーのダウンタウン。賑やかな通りに面した高層のコンドミニアムに到着した私は、半年振りにKの自宅を訪ね、そして再会したのでした。

「おお! 待ってたぞ! カナダにしたんだって?」
すでにメールで、これまでの経緯を伝えていましたので、私が決めた海外移住先がカナダであること、そしてゴルフツアーを業務にする会社を設立したこと、そして一番の難問であったビザの問題もクリアしたことを彼は知っていました。

「とうという決まったんだな! いやあ、おめでとう!」
いつもと変らぬ自信たっぷりの笑顔で、Kは私に握手を求めてきました。まずは、どこかで早めの夕食でも食べようとばかりに、彼の自宅から徒歩ですぐそばにある安い中華レストランに入りました。二人で適当な品を3〜4品頼んだ後、私は大急ぎで喋りはじめました。

Kの表情は興味を深める色合いに変り、私の話の内容を正確に理解しながら、絶妙なタイミングで相槌を打ち続けてくれたのでした。長野では全く得られなかった「話を聞いてもらっている」、「話を理解してもらっている」という感覚が、とにかく私には嬉しかったのです。適当に腹ごしらえを済ませた私たちは、そのまま真っ直ぐKの自宅に戻り、テラスでミーティングを再開しました。

私が考えている事業内容に対して、Kの質問や疑問はどれも的確でした。これまでに、海外移住地を決定することと、会社を興してビザを取ること、この壁を乗り越えることに全力を傾けるあまり、事業内容はどちらかと言えば名目上の色彩が濃く、具体性や実現性、収益性を細かく精査していませんでした。

もちろん、何も考えていないわけではありませんでしたが、ここからは本当の意味でのビジネスの展開を組み立てなければなりません。そのための良きアドバイザーとして、私にとってKの存在は貴重であり、大きいものだったのです。今回の私のシドニー滞在は、3日間でした。

「まあ、焦るな! 時間はあるんだから、ゆっくり話そうや!」
  
そして私は、彼の好意に甘えながら、ビジネスミーティングを始めたのでした。




 <第108話> シドニーの意外なゴルフ環境
1998年11月上旬。オーストラリア・シドニー。
友人Kには、事前にメールでカナダへの移住と、起業した後の業務をゴルフツアーにしたことを伝えていました。ちょうど彼も、ゴルフを始めたばかりだということで、シドニーではゴルフをする予定を立てていました。私は日本からゴルフバッグを持参して、これから連日のゴルフライフを楽しみにしていたのです。

会社を設立するために、夏の1ヶ月半をカナダのケロウナで過ごしている間、空いた時間を見つけては、ゴルフをやっていた私は、オーストラリアでゴルフをすることへの意欲を燃やしていたのです。シドニー郊外のパブリックコースで、私はKと初めてゴルフを共にしたのです。

ゴルフ初心者のKは、四苦八苦しながらボールを打ち続けました。海沿いの岸壁に沿ったゴルフコースでした。パブリックと言うものの、海からの風が吹きつけるので、難易度は相当に高いコースでした。風を遮る樹木が無く、海沿いの小高い丘に広がった草原のようなコースで、カナダには無い雰囲気と開放感が広がった、なかなかのコースでした。

「こりゃ、カナダも良いけれど、シドニーのゴルフ環境も良いなあ」
私は単純にそう思ったのでした。ところが、その後、シドニーのゴルフ事情を聞いた私は驚愕したのです。Kのようなシドニー在住者であっても、ここでは異邦人の扱いらしく、ゴルフが出来る曜日がコース毎に決められているのだそうです。

シドニーのゴルフ場ガイドブックを見てみると、たいていは週に2日の平日しかビジターを受け入れないのだそうです。土日は不可でした。例外は、シドニーから、かなり郊外に離れたゴルフ場や、ファミリー用のショートコースだけで、まともな18ホールのコースは、受け入れに一定の制限があったのです。しかも、Kの話によると、人種によって受け入れの態勢が異なるらしく、日本人を含めたアジア人への開放度は、かなり狭いらしいのです。つまり、ゴルフ場側から歓迎されないお客だ、と見なされることも珍しくないのだそうです。

つまり、ゴルフをやりたい時に、気軽に出来る環境ではないらしく、そうした環境を求める場合は、はやりゴールドコーストが良いということでした。私は、今回のオーストラリアの滞在地は、シドニーに3日間、その後はゴールドコーストに1週間の滞在を予定していました。

「やっぱり、オーストラリアでゴルフをするなら、ゴールドコーストなのかな?」

百聞は一見にしかず、という通り、これは実際に行ってみなければ分かりません。そう思うと、私の気持ちはすでにゴールドコーストに向いていたのです。




 <第109話> Mさんとの再会
1998年11月上旬。オーストラリア・シドニー。
友人Kの紹介で、4月に出会ったMさん夫妻 (第88話に登場)と、約半年ぶりに再会しました。

「Kさんから聞いたよ!カナダに移住するんだって?」

独特のオーラを全身から発している奥様のMさんが、私に問いかけてきました。

「ええ。いろいろ考えた結果、カナダにしました」
「そうなんだ。シドニーに来てくれればなあって思っていたんだけどね」

理由は良く分かりませんが、私はMさんと最初に出会ったときから、妙にウマが合うなあ、という印象がありました。同じ年ということで話やすいこともあるのでしょうけれど、何か波長が合うのです。人と人は、初対面の時に、気が合う合わないというのは敏感に分かりますし、それは相手にも伝わります。つまり、こちらが嫌だなあ、と思う相手は、相手の方もこちらのことを嫌だなあ、と感じるものです。一方、その反対のケースもあります。まったく面識が無かったにも関わらず、何だか気が合うという場合です。私はMさんに、そうした感覚を得ていたのですが、おそらくMさんも同じだったと思います。

話の内容は、ほとんどが商売やビジネスのことばかりでした。私が考える商売の組み立て方法や、方向付けに対して、Mさんはいつも興味を示しながら、

「うん、うん、それで?」
「ということは、その場合はどうするの?」
こうした質疑応答のような会話が延々と続いていったのです。

「やぱりさあ、カナダを止めて、シドニーに来なよ!」
Mさんが最後に私に言ってくれた言葉は、今でも忘れませんし、とても大きな励みになっています。Mさんは、既に起業し、独自の道を歩き始めています。私は立つべきスタートラインがようやく見えてきたところでした。私とMさんの差は歴然としていたのです。早く一人前になって、改めてMさんに再会できるように頑張ろう! これが私の素直な気持ちでした。

「滝澤さん、あなたなら必ず出来るし、必ず成功するから!」
別れ際に、Mさんは私にそう言ってくれました。今、振り返りながら考えてみると、いろいろな不安を抱いていた私の気持ちを一瞬にして晴らしてくれたのが、Mさんでした。もし、シドニーでMさんに出会っていなければ、もしかしたら私は途中で挫折していたかもしれません。Mさんは、それだけ強烈なインパクトを私に与えてくれた女性です。




 <第110話> 初めてのゴールドコースト
1998年11月上旬。オーストラリア・シドニー。
午前中の飛行機でシドニーからブリスベンに飛びました。飛行機の窓から眺める南太平洋の色は、深い群青色に染まっていました。この日から、私はゴールドコーストに1週間の滞在を予定していたのです。ブリスベンはゴールドコーストの窓口となる国際空港です。私はシドニーから国内線でブリスベンに到着しましたが、このブリスベンには成田をはじめ、日本の主だった主要空港から直行便が乗り入れていました。

国際空港とは思えないほどの小さなブリスベン空港には、ちょうど日本からの直行便が到着した時間と相まって、到着ロビーは凄まじい数の日本人観光客であふれ返っていたのです。どこをどう見渡しても、日本人しかいません。それも相当数でした。
  
「なんだ?これは? まるで大人の修学旅行だなあ・・・」

とにかく、その数たるや尋常ではなかったのです。これまで、バンクーバー、ロサンゼルス、シアトル、ダラス、サンフランシスコ、ヒューストン、香港、シドニー、パースなどの国際空港に降り立った経験があった私ですが、これほどまでに日本人が多い光景は見たことがありません。

1998年11月という時期は、後から振り返ると、ゴールドコーストに最も日本人観光客が押し寄せた年だったそうです。さて、そのロビーに溢れかえっていた日本人観光客は、旅行会社が仕立てた送迎バスに飲み込まれていきました。私は気ままな一人旅だったので、ブリスベン空港からゴールドコーストに移動する手立てを考えました。

事前に何の下調べもせず、「行けばなんとかなるさ!」という調子だったのです。さすがに観光地化された所だけあって、私は迷わず移動手段を見つけました。ブリスベン空港から、ゴールドコーストの主だったホテルを巡回しているバスがあったのです。ゴールドコーストで宿泊する安いホテルの名前を告げると、愛想の良い運転手が、二コリと微笑んでくれました。

「バスの出発時間まで、30分ほどありますから、暫くお待ちください」
運転手の声に促されるように、私は荷物をバスに載せて、空港前の広場に向かいました。11月の南半球は初夏の季節です。しかし、すでに真夏の日差しが広場のアスファルトを焦がすように照り付けていました。

「熱いなあ・・・」
この季節に冬に向かう日本を離れて、ゴールドコーストに来る日本人の気持ちが理解できるような気がしたのです。




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